「ダチュラ」積み上げたものは壊したくなるんだ2

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「ダチュラ」

この言葉を、私は知らない方が良かったかもしれない。

2018年10月、私はこんな記事を書いた。

▶積み上げたものは壊したくなるんだ

いまだ中二病を発症し続けている私にとって、積み木はぶち壊すものだ。肉まんなんて握りつぶすものだ。地面に転がってるクソは蹴飛ばすものだ。邪眼はいつか目覚めると思っている。邪眼の力をなめるなよ!グハハハハ!安定などくそくらえだ!不安定であればあるほど、生きてるってえもんじゃねえのかい?

現実には積み木などどこにもないし、肉まんは最近買わないし、クソも地面に転がってない。積み木も肉まんも買わなきゃ手元にはないし、地面に放たれたであろうクソは飼い主がキチンと処理してしまっている。もし見つけたとしても私は必死に避けて通る。

そんなぬくぬくとした環境に、今、私はいる。

それは、沢山の方々に助けられて、生きているからだ。私はちょっと前まではそこまでお上品な人間ではなかった。だがしかし、今はぬくぬくすぎる環境に身を置いている。幾分かはお上品になった。たまに下品にもなるが、環境の変化は人間性の変化も生じるのか。今の私はどんな事も笑ってやり過ごせるスキルを身に着けている。さらっと受け流して、自分にとって大切なものだけを守っている。そう、守りに入っている。もちろん、感謝している。それが出来るのは大切なものがあるからであり、積み上げてきた結果だからだ。

しかし、しかしだ。そのヌクモリティが、私の心をひどく傷つける時がある。

それで良いのか?

何か、見て見ぬフリをしてるんじゃないのか?この平和の裏に、何を犠牲にしている?

それで良いのか?

ああ、リセットしたい。

安定してくればしてくるほど、そんな気持ちになるのが私だ。

それで良いのか?

本質は変わらないのかもしれない。善人という面をすればするほど、ひどく違和感を覚える。

そんな私に新たな概念が加わった。ダチュラである。これは、2020年2月横浜読書会の課題本「コインロッカー・ベイビーズ」に出てきた重要なワードである。詳しくは説明しない。面倒くさい。気になったら読めばいい。面白いから。さすが村上龍だ。初読みだったが気に行ったぜ村上龍。タツオのくだりも大好きだ。課題本として皆で語れたのも良かった。私は何様だ?俺様だ!

この作品に登場するキクとハシの生きる姿が、私にこの記事を書かせてくれた。無論、他の方が積み上げたものを壊したくなる衝動があるわけではない。だが、決まった事に対して何の疑問も抱かなくなっている自分の観念は、たまにぶち壊したくなる。ダチュラ、ダチュラ、ダチュラ!さあ、この記事に文脈など文体など意味など何もありゃーせんぞ。今、今思いついたこの感情とこの言葉を、ただつらねているだけである。誤字脱字なぞも気にしない。そういえば思い出したがコインロッカー・ベイビーズの分中にチャカポコチャカポコと出てきて一瞬ドグラ・マグラかと思った。読書会で言おうと思って言い忘れてた。しまった。まあいいか。いや、よくない。この楽観的な部分も、これからぶち壊さなければならない。

「のーさんってこんな人でしょ?」っていう決めつけはマジでいらない。人をひとくくりにするな。一部を見て決めつけるな。私は確かに優しい人物ではあるし特に裏があるわけでもないが、かといって単に優しい人間というわけでもない。理想などはとっくになくしている。純粋な理想だけでは、何かが成し遂げられるなどとは思っていない。理想論は美しい。だが、無理な話だ。支持者よりも阻む奴らの方が多い世の中だ。うまーくたちまわらなきゃーならんぜよ。その立ち回り自体が汚らわしいなどと言われるのでありゃー、私はとっくに汚らわしい。ところで脈絡なく言いたくなったが、それは貴方の実力か?

もちろん、理想を掲げるのは大事だ。理想を追い求めるのも。私は中二病兼ロマンチストでもあるので、理想を追求したくなるのも確かだ。現に今も理想を追い求める自分も確かにいる。しかし、それは陽の部分でもある。大人になるにつれて理想の一部を「仕方ない」なんて言葉で片づけてしまった部分も既にある。理想の形自体が、陰の部分によってもう既に非常に小さいものになってしまっているのだ。この世界に順応したといえばどこぞの誰かには都合が良いかもしれないが、その世界って、なんだ?やはりこの世界全体がコインロッカーなのではないか?

純粋に理想だけを思っていたあの日が懐かしい。現実はそうじゃなかった。何があったかと言われたら、まあ別に何もない。そう、この文章は今単に思いついた言葉の羅列であるからして、全く持って説得力もなければ、意味もない。読んだ所で、何も意味がないのだ。

「何を持って失敗というんだい?」

これは、私の座右の銘だ。

何かをやってみて「失敗だったなー」と感じる出来事は沢山ある。きっと、これからも沢山あるだろう。だが、そのやってみたという経験そのものが数か月後、あるいは数年後、数十年後に何か別の事で活かされるかもしれない。その瞬間には失敗だったと感じたとしても、失敗じゃないかもしれない。私は常々そう思っている。全ては失敗であり、実験でもある。なんかカッコイイこといった私を褒めてくれ諸君。

ところで、本日病院に行ってきた。

二日前、太ももの付け根の部分が少し腫れていた。特に気にしていなかったのだが、昨日さらに大きく腫れていた。さすがにやばいと感じて今日病院に行ったのだった。粉瘤だといわれた。すぐさまベッドに移されて、局所麻酔して膿を出してもらった。膿はまた溜まってくる。これから治るまで大体五日間、地獄の日々が始まる。抗生剤を飲んで、一日二回、膿を出す作業をしなければならないのだ。

実は以前にも一度粉瘤が出来た事はある。その時もめちゃくちゃ痛かった。溜まった膿を出すという事には痛みが伴うのだ。その痛みをもう知ってしまっている。知らない時には、まあこんなもんかなと数日耐える事が出来た。しかし、今回は既に知ってしまっているから、初日から憂鬱である。毎日朝と夜に、膿をぶちゅーっと出さなければならないのだ。誰かにやってもらうのではなく、自分でやるのである。麻酔もない。しかも太ももの付け根である。めちゃくちゃ痛い。

実際やってみた。挫けた。

どうしたもんかなと思った時に光を与えた言葉がダチュラだった。ダチュラ、ダチュラ、ダチュラ!私は太ももの付け根を押す間、そう唱えた。この言葉が私に力を与えてくれたようだ。何度も押し出して、その度にダチュラと心の中で叫んだ。しかし五回目くらいで心が折れた。やっぱり痛かった。世界を変えるなんぞ私には無理だ。そう感じた。いや!しかし、やらねければならないのだ。やらなければ誰がやる。誰もやらない。誰もやらないなら、やむを得ない。やるしかな「え? やむを得ないんですか?」おっと、どこぞのタツオが引き金を引いた。わあわあとじいさんが叫び始めた。やめてくれ!私の付け根は私のものだ!私がやる!自分でやる!

なんだこの文章は。まったくもって破綻している。しかしながらそんな中でも最後にオチをつけようとしている自分がいる。先ほどから最後にどんな笑いで締めくくろうかななんて思考がよぎり始めている。そういえばつい最近「さよなら たりないふたり~みなとみらいであいましょう~」という動画をHuluで観た。説明はめんどくさいのでしないが、オードリー若林さんのオチのつけ方が秀逸だった。物語の中盤でワードを出しておいて、そのワードをオチの言葉に使うというものだ。ということをあけすけに若林さんは言い放っていて山ちゃんに突っ込まれていた。こんなことを書いたら実はこの記事にも中盤に何かワードを出したのではないかと思われるかもしれないが、ご安心あれ、何もない。毎回オチをつけると思うなよ!風呂入れよ!歯磨けよ!顔洗えよ!宿題やれよ!風邪ひくなよ!ババンババンバンバン!ああ、もう!またわあわあとじいさんが叫び始めた!じいさんの泣き声をBGMに今日は寝よう。よく眠れよ!それでは、また来週〜!