痛々しい時代の話をしようか③

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唐突に思い出した。

いつもならあれやらなこれやらなと後回しにしてしまうのだけれど、書きたいと思った今の気持ちを大切にしたいなと思った。

私が小学生だった頃の話だ。嘘のような本当の話。

近所に一人の爽やか系お兄さんがいた。お兄さんは「へい!遊びに行こうぜ!」と度々遊びに誘ってくれたのだけれど、当時生意気だった私はそれらの誘いを全て断っていた。「うるせー!」「誰が行くか!」「帰れ!」なんて実際に言葉にもしながら。それでもめげずに誘い続けていたお兄さんは、ある日会えなくなった。仕事中にトラックから落ちて亡くなったのだという。親から聞いただけなので、当時の私にはあまり実感がなく、「落ちたくらいで死ぬの?」なんて思っていた。ただ、当然ながら次の日から遊びに誘ってくれる人はいなくなった。あれだけうざいと思いながら、誘われなくなったらなったでぽっかりと穴が空いたような、そんな気持ちだった。

正確な年齢を覚えているわけではないけれど、30代前半くらいだったはずだ。いつの間にやら、あの頃のお兄さんの年齢を超えてしまった。

こんな話を書こうと思ったのは、彩ふ文芸部の投稿作品を読んで爽やか系お兄さんのことを思い出したからだ。

▶「タンノイのエジンバラ」から考える大人像

この中に『自分たちが「大人」というものに、かなり過大な期待を持っている』とあって、なるほど確かにそれはあるなと思ったのだ。読む前だったら、この爽やか系お兄さんの話はきっと今の私自身と比べた話に展開していって、私はまだまだだなあ頑張ろうという所で締めくくっていただろう。そもそもこの投稿作品を読まなければ爽やか系お兄さんの事を思い出す事はなかっただろうけれども。

私は今でもスナック菓子を食べるし、仕事で振り回されることもある。理想的な大人ではないかもしれないけれども、大人である。うまく言語化できないのがもどかしいけれども、とにもかくにもこの話は色んなことにも置き換えられるなあと思った。男である事だとか、長男、先輩、父親、息子、読書会主催。色んな分類のされかたがあって、それら一つ一つ自分にとっても周りにとっても理想像があるなと。小さい頃ならば「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」とか、そんな風に言われたりして。その理想に手が届かなくて、しんどい思いをしてしまうのは、あるなあと。美化していないか?現実離れしていないか?と自らに問いかけてみるのはすんごく必要な事だと思う。

まとまりはないが、今日はこれにて!