のーさんは激怒した

のーさんは激怒した。

これは何とかせねばと決意した。のーさんには政治はわからぬ。のーさんは、ただのサラリーマンである。朝目覚めたら支度をし、会社へと赴く日々を送ってきた。温厚な人間で、彼が怒る姿を見た者は誰一人としていない。けれども彼は空腹に対しては、人一倍に敏感であった。

今朝のーさんは早起きをし、コンタクトを入れ髭を剃り、1メートル離れたオーブントースターのもとで足を止めた。トースターの下には朝ごはんセットとして食パンが置いてあるはずだった。しかし、食パンがない。冷蔵庫を開けてみるといちごジャムもブルーベリージャムもバターもない。のーさんはいちごジャム派だった。あの甘さが一日の活力を生み出し、仕事という苦難から彼を幾度も救ってきた。いちごジャムはそれほど大切な存在なのである。のーさんは、それゆえ、前日には必ず食パンとジャムの残量を確認し、足りなければ夜であってもはるばるコンビニまで買いに走った。そのような夜が幾度もあった。

今朝、起きた瞬間に嫌な予感はしていた。ひっそりしている。のんきなのーさんもだんだん不安になって来た。そしてオーブントースターの下に目をやった時、嫌な予感は的中していたのだと気づいた。のーさんは、前日に寝落ちしていたのだ。残量を確認せずに寝てしまったことで、買いに走ることも出来なかった。今からではもう何もかもが遅いのだ。

のーさんは激怒した。しかし誰に怒りの矛先を向けて良いやらわからぬ。寝落ちしてしまった自分はさておき、何故寝落ちしてしまったのか、のーさんは時を遡ることにした。そこに矛先がある気がしたからである。ここのところ、新たに仕事を覚える必要があった。慣れない場に疲れが溜まっていた。たびたび夜に買いに走っていたのも、ここ一ヶ月は特に多かった。寝落ちしかけた夜も幾度とある。いずれはこうなる運命だったのだ。とすると、やはり悪いのは仕事であろう。仕事のせいで、のーさんは今空腹に悩まされているのだ。

のーさんは、単純な男であった。リュックを背負ったままで、のそのそと職場へと向かった。それが単なる出勤であると気づいたのは、職場に着いてからだった。たちまち彼は、職場の仲間たちから声をかけられた。おはようございます。そんな邪気のない声が所々で響き渡る。のーさんも染み付いた習性で挨拶を返したが、朝食抜きの体では声量がいまひとつであった。ここでのーさんはとあることに気づいた。慌ててリュックに手を突っ込む。しかし、普段との違いに訝しがった上司がやってきて、そのブツを見られたため騒ぎが大きくなってしまった。

「これで何をするつもりであったか。言え!」

上司は静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

「空腹から救うのだ」

とのーさんは悪びれずに答えた。上司は憫笑した。

「仕方の無いやつじゃ」

「言うな!」

とのーさんは、いきり立って反駁した。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ」

上司は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。

「わしだって、平和を望んでいるのだが」

「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か」

「だまれ、部下の者」

上司は、さっと顔を挙げて報いた。

「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ」

「ああ、貴方は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」

と言いかけて、のーさんはリュックの中に非常用として用意していたものに視線を向け瞬時ためらい、

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、3分間の猶予を与えて下さい。3分のうちに、私はこの箱を空け、中身を取り出し、必ずここへ帰って来ます」

「ばかな」

と上司は、しわがれた声で低く笑った。

「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「そうです。帰って来るのです」

のーさんは必死で言い張った。

「私は約束を守ります。私を、3分間だけ許して下さい。私の胃袋が待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、このフロアに私の後輩がいます。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、3分経っても、ここに帰って来なかったら、あの後輩を好きにしてやって下さい。たのむ、そうして下さい」

 それを聞いて上司は、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの後輩を、3分後に磔にし、くすぐってやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの後輩をくすぐりの刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。3分後には帰って来い。遅れたら、その身代りをくすぐりの刑に処すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ」

「なに、何をおっしゃる」

「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」

 のーさんは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。

 竹馬の後輩は、即座に呼び出された。

事の顛末を聞いた後輩はこう言った。

「今の間に食べときゃ良かったんじゃないスか?」

のーさんと上司はハッとした。話している間に3分はとうに過ぎていた。

「もう始業時間過ぎてますよ。ちゃんと仕事してください」

まさに正論。

のーさんと上司はひどく赤面した。

~完~