究極の内輪小説

先日彩ふ読書会のスピンオフ企画で哲学カフェが開催された。私は参加していないのだが、非常に詳しくレポートして下さってる方々がいて、参加していたような気分を味わえたのでここに貼っておく。

ひじきさん2/22レポ①:「哲学カフェ部・活動の記録~〈笑い〉編」

ひじきさん2/22レポ②:「内輪ネタに走るのはどうして?~哲学カフェの事後課題~」

ちくわさん2/22レポ①:哲学カフェを開催しました!「笑い」~彩ふ読書会サークル活動

ちくわさん2/22レポ②:哲学カフェを開催しました!「笑い」②~彩ふ読書会サークル活動

哲学カフェのテーマは「笑い」

私は九州から関西にやってきた身なので、いつまでたっても付け焼き刃な笑いしか取れないなと感じている。感覚的なものが備わっていないなと常々感じているのだ。無論、関西に住んでいる方全員がお笑いに精通しているかといえばそうではない。あそことひとくくりにしないでおくれという所も存在する。だがしかし、某アイドルが出演する番組がお笑い番組に替わってるくらいには、他県とくらべてお笑いに触れる機会は多い。
笑いのイニシエーションを浴び、必然的に笑いとは何か考えた時期もあったが、未だ結論は出ていない。出せるもんでもないのかなと思考停止していたこのテーマ。是非ともその場で聞きたかったなあと思う。

さて、その中で内輪ネタの話題が上がったようだ。それで思い出したのだが、私は以前内輪ネタ全開な小説を書いた事がある。この機会にあれを究極の内輪小説と名付けよう。アルティメッ……いや、なんでもない。遊戯王は私の黒歴史!

究極の内輪小説は、彩ふ読書会を始める前に作っていたゲームサークル内で書いたものである。その時のサークルメンバーは500名をゆうに超えていて、いずれ1000人を超えるという状況だった。せっかくなので何か面白い企画を!と考えて思いついたのが、サークルメンバー総出演の小説を書くというものだった。

昔小説を書いていたことは全く言ってなかったし、小説を書くのをやめてから5、6年は経っていた。小説を書く、という行為自体に嫌悪感を抱いていた時期でもある。そんな私が、サークルメンバーのみんなに楽しんでもらおうと考えた時に思い付いたのが小説を書くというものだったのだから、改めて考えると面白い。

何故久しぶりに小説を書こうと思ったのか。それは、安心感から来るものだったのだろう。ここにいるサークルメンバーならば楽しんくれるはず、という安心感があったから、私は書けたのだ。

実は一時期小説家の弟子をしていたのだが、師匠からはほぼダメ出ししかされておらず、後半はダメ出しが怖くてプロットを作る事自体をしなくなっていた。今思えばキャラクターも浅く、ストーリーも破綻していたので、そりゃそうだって感じではあるのだが、当時は何でも出来るぜと思っていたので、自分自身を否定された気になっていた。作品を出して自分を否定されるよりも、提出しなかった事を怒られる方がマシという思考に陥っていた。

師匠から唯一褒められた事がある。プロット書かないなら一度短編を書け、と言われて勢いのまま書いた短編だった。これだけは師匠から絶賛された。ブルマの話だった。かつて学校で女子が履いていた、あの謎のブルマを題材にした話である。主人公がブルマの必要性をひたすら熱く絶賛するというだけの作品が絶賛された。

とにもかくにも、自分自身を否定されたように思っていた小説を書くという行為。それを再び書く気にさせてくれたのは、その時のサークルメンバーのおかげである。

究極の内輪小説は、サークルで取り扱っていたゲームの二次創作ものだった。そのゲームにはキャラクターやざっくりとした世界観はあるものの、ほとんどストーリーがなかった。そのため、勝手にキャラクターの設定を足したりしてストーリーを作ったのである。しかもその世界にサークルメンバーが一人一人主人公として登場する、というものだった。
それぞれ最初は同じ選択肢を設けているが、選んだ選択肢によってどんどん枝分かれしていく。ある程度の大枠は作っていたものの、始まってからはその場その場で即興でストーリーを作っていた。

今考えても、あれはかなりの熱量を持って作った作品だった。選択肢のコメントをしない人がほとんどだったので、最後まで参加したのは実質30人くらいだったが、その30人の結末がほぼ違うのだ。参加した人にしか分からないが、満足度でいえばかなりのものであったのは確かだ。物語自体は5日間で終わったのだが、その5日間、私は寝る間も惜しんでひたすら物語を書き続けた。ちょうど盆休みか何かだったと思う。

選択肢には毎回「その他」という項目を作っていたため、当初予定していた物語からは大きく逸れる行動を取るメンバーもいたのだが、むしろその行動が面白さを生んで、結果二次創作の中から新たなオリジナルキャラクターが生まれたりもした。更にそのオリジナルキャラクターを絵にしてくれた人もいたりして、かなり盛り上がった。具体と抽象の概念で分ければ、これは超具体的小説といえる。

究極の内輪小説なので、サークルメンバー以外が読んでもさっぱり面白くはない。一度それを某投稿サイトに載せてみたものの、サークルメンバー以外からは誰にも読まれなかった。何故だ!なんてその時は思ったりもしたが、今思えばそりゃそうだなと思う。

何のために小説を書くのか?

これは小説の神様で度々出てくるワードだ。この小説は小説自体をテーマにした面白い作品なのだが、その中の中核を担うテーマが「何のために小説を書くのか?」なのかなと個人的には感じた。全く小説を書いた経験のない方には響かないかもしれない。けれど、何かしらの文章を書いた経験のある人には、かなり響くものがあると思う。是非とも一度読んで頂きたい作品だ。

この時の私は、サークルメンバーに楽しんでもらうために、という明確な理由が存在した。ゆえに筆も進む進む。その後、この究極の内輪小説は第二弾、第三弾と続いた。しかし、シリーズ化するにつれて、参加メンバーも徐々に減っていった。そもそも二次創作な上、第一弾や第二弾に参加した人にしか分からないネタも入ってくる。内輪がさらに内輪になっていったのだ。必然的にネタが分かる人はどんどん減っていったのである。なるべく第三弾が初参加の方にも分かるようにと書いてはみても、やはり難しい面があった。

いつしか、「これだけやってるのに!」という気持ちが芽生えてきてしまった。自分の割いている時間や熱量と、それに対して得られるものを天秤にかけてしまったのだ。続きを期待してくれている方もいたし、私自身も書きたかったのだが、書けなくなってしまった。

その後、今度は今の仕事をもとに小説を書いてみた。新人賞に応募したものの結果は惨敗。やはりこれも、今思えばかなり内輪小説だったといえる。福祉関係者ですら分からない、今の職場メンバーにしか分からないようなネタをふんだんに盛り込んでいた。それが面白いと感じれるのは、やはり職場のメンバーしかいないのだろう。

彩ふ読書会でも一度やりたいなとは思ってはいるのだが、多分やることはないだろう。というか、あの時期だったからこそ出来た事だ。やはりどうしても、やる意味を求めてしまう自分がいて、それと得られるものとを天秤にかけてしまう自分がいる。他に楽しい事は沢山あるしなーと思ってしまう。

といいつつ、ここであれば皆に楽しんでもらえるはずだ、という安心感も確かにある。さすがに5日間寝る間も惜しんでは作れないが、いずれ何かしらの事はやるかもしれない。

哲学カフェで出てきた内輪ネタの話と、次回大阪で課題本の小説の神様。この二つが私の中で一つに繋がり、このような記事を書けた。まさか究極の内輪小説を思い出すとは思いもよらなかったが、書いていて楽しかったのでまあ良しとしよう。

オチはないが、これにて終わる!

ではまた!