考えるだけ無駄無駄ぁっ・・・とはならない“どうせ死ぬのになぜ生きるのか”

どうせ死ぬのになぜ生きるのか
名越康文
PHP新書

一度は考えたことありませんか?

自分が死んだらどうなるんだろう?

今ある意識はどこにいくんだろう?って。

今この時に感じていること。何かをしてもらって嬉しかったり、何かを見て楽しくて笑ったり、あるいは何かをされて苛々したり、悲しかったり、悔しかったり・・・・・・そんな感情たちは、一体どこにいくんだろう?

俺の場合、死について考えて意識を集中させていくと、大きな暗ーい闇の中に吸い込まれていくような感覚が襲ってきます。イメージとしてはブラックホールですね。そこで思考をやめることもあれば実際に吸い込まれてしまうこともあります。でも、吸い込まれた先には何もなく、ただただ闇が続くだけ。この思考に陥っている間、全身がゾワゾワーッとします。

お恥ずかしい話、ワタクシ1999年にノストラさんがマジでやってくると思ってました!死んだらどうなるの!?怖い!!でも誰にも相談出来ない!なんて悶々とした日々を小学生時代に経験しております。

情報源が友達だったからか余計に信じてしまいました。きっとそれを誰かに相談していたらあっという間に解決したんだろうけども、そういう話の出来る友達なんて他にいなかったですからね。一人で考えざるを得なかったのです。まあ1999年が来るよりだいぶ前に嘘だと気づきましたけどね、ええ。ホントだよ!赤文字太字にするくらい、ホントだよ!

今思い出しましたが、紫の鏡を教えてくれたのも同じ人でした。20歳まで覚えてると死ぬってやつ。た、たち悪いやつだぜ・・・・・・。

・・・・・・こほん。

さて、今回の「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」は、これまで同様タイトルに惹かれて読んでみた本です。テレビでもよく見る精神科医・名越康文さんが書かれています。

人それぞれタイミングはあるかと思いますが、必ずいつかは向き合うことになる問いが「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」だと思います。「考えるだけ無駄無駄ぁっ!!」と蓋を閉じてみるのも手ですが、気がつけば蓋が開いちゃってて突然襲いかかってきたりしますよね。それこそこの記事を読んでしまったことで貴方の蓋を今現在なうで開いてしまったかもしれませんよね申し訳ありません!(ビビる。だが書き続ける!)

誰もが納得するような答えなんて出てくるはずがないんです。他人の死を見て、死というものは自分自身にもいずれやってくるものだとは理解出来ても、いざ自分が体験するときには自分は死んじゃってるんですから。かといって、この問いに答えられない限り根本的なところで「生きる意味」を見いだせない。だからこそ、いくらお金を儲けても恋人や家族に恵まれても、心の奥底にある「漠然とした不安」から逃れることが出来ない。考え過ぎたら精神的に追い詰められてしまう。なんて厄介な問いなんだ!

著者の名越先生は精神科医として5000人以上の心の病んだ方々を診てきました。カウンセリングに訪れる人たちの「なんとなく空しい」「生きているのが辛い」「どう生きたらいいのかわからない」という悩みに本当の意味で応えるためには、自分自身が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに向き合い、答えを出していかなければならないのではないか、と感じるようになったそうです。とはいえ仕事も忙しい三十代。実際に瞑想や行を日常に取り入れ始めたのは48歳の時だそうです。

あ、ちなみにサブタイトルには「晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義」と入っています。精神科医視点で書かれているのかと思いきや、仏教心理学という視点からこの本は書かれています。宗教関連に抵抗感のある方はソッと閉じてしまう内容かもしれません。ちなみにワタクシは「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」というタイトルに目がいきすぎてサブタイトルに気づかず手に取ってしまったのでした(^_^;)

この本を読んだからといって誰もが納得する答えが得られるわけではありません。でも、誰もが納得する答えが得られるわけではないという事が改めて分かっただけでも一つ賢くなれたのかな?自分なりの答えをいざ出さなければならなくなった時、どれだけの知識や経験を持っているかで答えも変わってくるのかもしれません。鵜呑みにしたり洗脳されたりしちゃあいけないけれど、一つの知識として得ておくのはアリなのかなと思います。

《文:nonono》

 

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