ネガティブ思考になる時期がやってきた。
なにがしたいのだ?ということを、最近よく考えている。
原因は分かっているけども、こればかりはどうしようもない。いわゆる人事問題。自分は異動があるのか、ないのか。他の人はどうなるのか。気にしないようにしていても、やはり気になる。
別に異動が嫌なわけではない。どこにいってもそれなりに順応出来る。モチベーションは低空飛行だけど(笑)
異動そのものよりも、「変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」この不安定な時期が嫌なのだ。自分ではどうしようもないことだからこそ、嫌なのである。
何も変わらず安定している、ということに私は安心感を覚えるのだろう。変化を望んでおきながら、その根底には安定が潜んでいる。安定があるから変化を望む的な?
毎年2月後半から3月いっぱいまではただならぬ影響を受ける。受けてしまう自分も嫌になる。そして異動があるにせよないにせよ、年々上の人たちはいなくなり、必然的に担当業務は増える。業務量と給料の上昇率は見合わない。来年度はどこまで仕事が増えるのか、どこまで抑えられるのか、そんなことを考え出す。
そんな中で私は何とか状況を打破しようと毎年何かしらの策を打ってきた。
それがことごとく無駄だと理解した私は社内を飛び出し、読書会を立ち上げた。去年の2月に東京に初遠征して読書会を開催したのは、そういう経緯も含まれている。なぜ関西以外でも読書会を開催するのか?という質問の答えにはいつも困っているのだけど、これが本音なのかもしれない。
まあ、それはさておき、一度始めた東京遠征。2018年6月からはしっかりと体制も整えて、結局細かいところは見切り発車でここまで続けて来られた。サポーターさんにも参加者の方にも本当に恵まれていると感じている。色んな事がありつつも続けてこられているのは皆さんのおかげだ。今では月一回の居住区だ。
さて、続けていく中で沢山の方々から彩ふ読書会が目指す所、「家庭でもない、職場でもない、第3の居場所作り」についての回答を頂いている。
「彩ふ読書会は私の居場所」と言って頂けることはこの上ない喜びである。目指す所を目指せている、と実感出来る言葉でこの上なく嬉しい。
しかしそれはある意味、目標に既に到達しているともいえる。どこに到達点をおくかにもよるけども、参加して下さっている方々の中には確実に自分の居場所だと感じて頂けているのだ。
ゆえに、「わたしはなにがしたいのだ?」と考える。
自分自身が異動でこれだけまいっちんぐなのを考えると、彩ふ読書会が「存在し続けること」が何より一番必要なことなのかもしれない。
そうなると、今の状態はまだまだ不安定。一見安定しているように見えていても、問題はどんどん積み重なってきている。例えば私がインフルエンザになればそれだけでその日の読書会は開催中止せざるをえないし、中止が度々起こるようでは信用はなくなっていく。せっかく予定を入れて下さっているのにこちらの都合で「中止です」なんて言えない。
会場トラブル等が起きたらそちらの対応をせざるをえなくなり肝心の読書会が出来なくなるし、そもそも私が「やーめた!」と言ってしまえば、そこで終わりなのだ。
そう考えると、存在し続けているあらゆるものは素直にすごいな、と思う。中身がどうであれ、形としてはそこにあるのだ。あり続けるのだ。当たり前のように。
それを個人でやろうという発想自体が、やはり無理があるのかもしれない。いや、個人でやることに意味がある、といくら言い聞かせても、この時期の思考はネガティブ方面へまっしぐら。
プレイヤーであり続けたい、と思う反面、やはりそれは難しいのではないかとも考える。無理のない体制、仕組み作りをいよいよ本格的に考える時期が来たのではないか。なんて考える。そのためにはもう一段階、自分の枠からはみ出していく必要がある。今ある形を、積み上げてきたものを、壊したい衝動を、解き放つ必要がある。その踏ん切りはついていないし、3月末までは大きな決断はしないと決めている。正常な判断が出来るようになってから、また考えていきたい。ちょうどGWがある。あの時期にまた考えようと思う。
今の仕事を定年までやるか?と言われれば、少し前ならば「NO」一択だった。いつかは辞める。辞めなければ自分がもたない、とyukiに愚痴をこぼしたこともある。
今は少し考え方が変わっている。辞めるという選択肢以外見えていなかったけれど、辞める以外にも方法はあると気づく事が出来た。今の仕事のやり方を変えても問題ない状態に持っていこうと思う。
生きるとはどういうことか。どうせ死ぬのに、という思考はこの時期にふとよぎる思考で、これを考え出すと身体の芯がゾワゾワッとする。小学生の時期から抱いたこの問いに対する答えは出ていないし、答えは出ないとも分かっている。普段は考えないようにしているのだけれど、ネガティブ思考が勝るとこの問いは平然とした顔でやってくる。しかも年々体を大きくして。死が現実味を帯びれば帯びるほど、奴の体は大きくなっていく。そんな感覚。まだ私は死ぬのがたまらなく怖い。この恐怖から抜け出すことが出来るのだろうか。
究極的に言えば全ての事は無駄、ともいえる。しかし、逆に言えば無駄だから何をしても良い、ということでもある。世界はそんなに変わらない。それは個人としては悲しいことかもしれないけれど、変わらないのならば何をしても自由なのだ、と考えることも出来る。
自分を縛るものは沢山ある。がんじがらめな感覚に陥ることもある。けども、本当に自分を縛るものは「死」だけだ。と考えると少し気分は軽くなる。大抵はこの思考の流れで私は浮上していく。
尊敬している人がいる。
出会ったのはもう十年前だ。身近な所に尊敬している人がいるというのは、とても刺激的で参考になることも多い。
その人の全てを盲目的に尊敬しているわけではないけれども、やはりスゲーなと感じる部分は十年前経っても変わらない。
その人のことを私は心の中で「言葉の魔術師」と呼んでいる。もちろん声に出して言ったことはないし今後も言うつもりはない。
その人は見た目もさることながら言動もかなりヤバイ。正直何を言っているか分からん時も多い。
しかし、伝わってくるのだ。
アツい想いが。
何を言っているか分からなくても、その人の言いたい事は何となく分かってしまう。聞き手はその人の言葉を勝手に解釈して、試行錯誤アクションを起こす。ゆえに、その人の想いは自然と現実化していく。そんな様子を冷めた目で見ているはずの私も、気が付けばその渦に巻き込まれている。
その人は自分の言葉で喋っている。だから、伝わってくる。何とかして応えようとしたくなってくる。
上手いな、と、いつも感じる。ある意味洗脳に近い形で、その人は周囲を巻き込んでいく。そうと分かっているはずの私も巻き込んでいるのだから、その洗脳力はかなりやばい。
しかし、私はその人に出会えて良かったと感じている。身をもって体感したことで、まるでコンビニ人間のように私自身にもその力が身に付いたからだ。私はいつ何時も「自分の言葉で喋ろう」と心がけるようになった。
今こそアツい想いを語ろうではないか。熱弁を振るおうではないか。アツい想いはきっと誰かに届くのだから。
なぜ、この文章を書いて、あえてブログに載せるのか。それは、この文章が今この時期にしか書けないものだからだ。四月以降には間違いなく私は春の陽気に誘われて「うふふ、あはは~」となっている。その状態になると、もう書けない。「うふふ、あっは~ん」な時にしか書けない文章もあるので、その時その時に書けるものを書いておく、ということは非常に大切なことのようにも思う。
さて、長くなったがここら辺で終わりにしよう。
そして、4月になったら始めよう。
新たな挑戦を。