「ええやん」と思わせてくれた彼らがM-1王者説 M-1グランプリ2023について

2024年1月1日から彩ふ文芸部を再スタートする。

景気づけに創作小説を一本書こうと思っていたのだが、どうも書けずに1月1日となってしまった。

師走で忙しかったのが理由である。ここ数週間は意図的にアンテナを閉じ、作業的に体を動かすことがほとんどだった。とにかくタスク消化を優先したため、アンテナを張っていれば刺さっていたであろうエピソードにも目を背け続けていた。創作小説を書くとき、私の場合は自分自身の体験をベースに調理して書いている。目を背けてしまうと、書こうと思ってもネタがないという事態に陥ってしまうのである。

過去の体験をベースに書くことも出来るが、それらは私の中で大切に留めているものでもあるので、時間のある時にじっくりコトコト煮込みたいという思いがある。

最近のネタもないし、過去のエピソードはネタにしたくない。どーしたもんかな、と思っていた矢先に、背けていたはずの目をこじ開けられるものと出会った。

12月24日に開催されたM-1グランプリである。

私は関西に住んでいてお笑いには馴染みがある。ただし、関西で生まれ育ったというわけではない。「お笑い」をテーマにする身ではないという引け目があってこれまで書いてこなかったのだが、今回どうしても書きたくなったので書く。

言い訳がましいが、創作小説という形にするには時間もかかるので、今回はエッセイという形で書いてみようと思う。調理するのはまたいずれ。

本題に入る前に「前置きの前置き」と「前置き」という見出しを作っている。「前置きの前置き」では私のことを書き、「前置き」では関西全域のお笑い文化について書いている。読み飛ばしてもらっても構わないが、もし良かったら読んで頂きたい。

では始めよう。

前置きの前置き

私は九州の某県出身で、高校卒業後に関西へと引っ越した。それから十数年経つが、関西に染まっているかといえばそうでもない。関西の地に居心地の良さを感じてはいるが、自信を持って「関西人です」と言えるほどではなく、どこか一歩引いた目線で周りを見ているところがある。

では「九州の某県人です」と言えるかというとそうでもない。九州某県出身とは言えるが、「九州の某県人」とは言えないのだ。九州の某県に住んでいたのは子どもの頃で、それからほとんど帰省もしないまま年月が過ぎているからだ。某県に懐かしいと感じる風景はいくつか存在するが、実家の周辺にしかなく、隣の市ともなれば同じ県でも全く分からない。

出身地を離れた人たちは少なからず抱くのかもしれないし、そういうわけでもないかもしれないが、私の場合は随分と長い間、九州の某県にいた頃の自分を否定してきた。「地元」という一つのアイデンティティを否定していたのだ。九州人ともいえず、かといって関西人ともいえないような状況が続いていた。

悲観的なわけではない。郷土愛がないということは、逆に考えれば土地を気楽に行き来できるということでもあるのではないかと思うからだ。読書会をやるためだけに東京へ行ったり、コロナ禍前であれば名古屋へ行ったりする発想は、その地を観光地と位置付けた時点でおそらく生まれない。ある意味、日本中どこでも自分の地だという気楽さが発想の元にある気がしている。知らんけど。

前置き

関西にはお笑いの文化がある。
九州某県にはなかったため、関西に来た当初は洗礼を受けることとなった。会話のやりとりにはボケとツッコミが必要だし、会話の終わりにはオチを求められる。「で、オチは?」と追求されることが続き、私の言葉数は次第に少なくなっていった。少なくなるとなるで「のーさんって何考えてるん?」と言われるようになり、どないせーっちゅうねんという事態に陥った。関西人はとかく頭の回転が早い。いや、考え切る前に言葉を発しているのだろう。熟考タイプの私は一歩遅れてしまい、会話のやりとりには非常に悩まされた。

物を捨てることを「ほかす」と言ったり、マクドナルドを「マクド」と言ったり、東京に対しては何やら敵対心を抱いていて標準語を使う人間には容赦がない。ローカル番組にはお笑い芸人が多数出演していて、何の気なしにテレビを見ていても自然とお笑い芸人の顔と名前が一致するようになる。たこ焼き器は一家に一台あるのは当たり前で、もちろん私の家にもある。おもろい(面白い)かどうかが基準の一つ、いや、ほとんどの基準として成り立っており、「おもんない(面白くない)」と言われることは屈辱以外の何物でもない。よしもと新喜劇は何故か見ちゃう。

関西には独特の文化がある。

ちなみにここまで「関西」とひとくくりにしてしまっているが、関西全域がそうだというわけではないし、「一緒にしないでくれ」とうんざりする人たちもいる。厳密にいえば大阪の話ではあるのだが、関西全域に波及しているし、他県の方からすれば全て同じように見られていることだろう。ここについてはこのエッセイとは別に一本書けるくらいになるので割愛するし、便宜上関西で続けてさせてもらう。

「前置きの前置き」で関西には染まりきれていないと書いているが、十年以上も暮らせば多少は身に着くものだ。私の喋り方に違和感を持つ人もいるが、基本的には「そういうやつ」ということで受け入れてもらっている。この「そういうやつ(そういうもん)」的文化が私は好きだ。ちなみに関西人はディスられても平気で返してくるが、褒められると途端に口数が少なくなる。
多少染まったとはいえ、「なんでやねん」はいまだに使ったことがない。何だか気恥ずかしさがある。私の子どもは生まれも育ちも関西なので、嫉妬するくらい「なんでやねん」を使いこなしている。

関西では一般人も漫才のようなやりとりをしている。

もし関西の地を訪れることがあれば、試しに街中あるいはカフェ等で近くの人の会話を聞いてみると良い。大体において誰かが「この前こんなんあってな」とエピソードトークを繰り広げ、誰かが相槌を打ち、誰かがツッコミを入れている。

お笑いには型があり、ベタなものやトレンドのものなど様々あるが、関西人なら誰しもが基本の型の他に「自分なりの型」を持っている。こういう風にボケる、こういうボケをされたらこういう風にツッコむ、というような型だ。私自身にもある。経験から身に着けたものだが、例えば上司から「のーさんって〇〇やねんな」と振られたときに「いや、〇〇ですよ」と返したら周囲から笑いが取れたとしよう。このやりとりで笑いが取れるという確信が得られた場合、二人の間に型が生まれたことになる。次からも同じように上司から振られる。私も同じように返す。周囲の人から同じように笑いが取れる。その型を見ていた誰かが同じように振ってきて、私は様々な返し方を身に着ける。そういう風に日常的なやりとりで得た型がいくつかある。私にもあるのだから、これを幼少期からナチュラルに積み重ねている関西生まれ関西育ちの人の持つ型はおそらくかなりの量となる。

そうしたアマチュア漫才師が跋扈する関西の地においては、皆誰しもが「自分よりおもろいかおもろくないか」でプロのお笑い芸人を見ている。かなり厳しい目を持っているのだ。

M-1グランプリで心突き動かされた話

では本題に入ろう。

先日放送されたM-1グランプリ2023を、私は家族と一緒に視聴した。

私の妻は生まれも育ちも関西である。妻はコンビのネタが終わるたびに評価をしていた。おもろいかおもろくないか。出だしがどうだったか、オチがどうだったか。妻の評価が高いのに点数が低かったりすると「審査員とはセンス合わへんな」なんてブツブツと怒っていたりする。

M-1グランプリ2023においては、トップバッターで登場した令和ロマンがいきなり高得点を出した。例年なら、序盤は会場全体に緊張感が漂っているものだが、令和ロマンのネタが終わったあとの会場は良い意味で緊張感がほぐれていて和やかなものだったように思う。例年なら中盤の誰かのネタでガラッと空気感が変わることが多いが、今回はそのような展開もなかった。令和ロマンが初めに作った場を崩せるほどのネタがなかったのだ。結局、令和ロマンは決勝トーナメントに進出し、一票差で優勝となった。

審査員の投票で決まる方式のため、「いや、〇〇が優勝やろ!」と納得のいかない人も当然ながらいるだろう。私自身も、もし私が審査員ならば別のコンビに投票していた。決勝トーナメントに残った3組はどのコンビも面白かったし、誰が優勝してもおかしくなかったように思う。

令和ロマンに関していえば、単純に面白かっただけでなく、滑舌が非常に良くて聞き取りやすかった。

私はテレビやネットフリックスで動画を観る時、必ず字幕をつけている。声だけだと何を言っているのか分からないからだ。もしかすると字幕をつけることが通常となってしまったことで聞き取る能力が落ちてしまった可能性もあるのだが、なんせ字幕で追う方がラクチンなので習慣となっている。

テレビの場合もドラマや映画の場合はリアルタイムで字幕が出てくるため全くストレスなく視聴することが出来る。ただ生放送はそうはいかない。字幕はリアルタイムではなく遅れて表示されるため、ほとんど使い物にならない。むしろ邪魔になってしまう。ニュース番組の場合はテロップなどで何となく分かるのだが、漫才となるともはや何が何だか分からない。字幕を切って見るしかないのだが、そうなると滑舌が悪い人のネタは何をやっているのか分からなくなってしまうので笑うことが出来ない。

令和ロマンの場合は滑舌が良かったし、ネタ自体も頭を使わずにすんなりと入ってくるものだったため非常にストレスなく笑うことが出来た。特に決勝トーナメントでのネタは腹を抱えて声を立てて笑ってしまった。ヤーレンズも非常に良かった。一票差でもあったし、優勝する可能性はあっただろう。

決勝トーナメントに残った3組のうち、さや香は一票も獲得出来なかった。

結果だけを見ると、今後令和ロマンとヤーレンズがテレビにもばんばん出て活躍していくようにも思えるが、はたしてそうだろうか。

私は、M-1グランプリ2023の恩恵を最も受けるのは「さや香」ではないかと思っている。

「ええやん」にさせてくれた彼らがナンバーワン説

お笑い芸人の「さや香」はボケの石井とツッコミの新山二人のコンビである。彼らのコンビの成り立ちやエピソードについては調べれば出てくるので割愛するが、私にとってのさや香は「なんか気にくわない」部類の芸人であった。明確にここが嫌いという部分があるわけではなく、なんか気にくわなかったのだ。去年のM-1でも彼らは決勝トーナメントに残っていたが、彼ら以外のコンビに優勝してほしいと切に願っていた。

去年の時点では私の中で「なんか気にくわない」で終わっていた彼らだが、その後関西のローカル番組でもよく目にするようになった。というよりも、名前と顔が一致した分、テレビに出ていると気づくようになったともいえる。気にくわない奴が出ている番組をわざわざ見る必要はないとチャンネルを変えていた。

さや香は今年もM-1に出て決勝トーナメントにも進出。一回目と同じようなネタをすれば優勝の可能性も大きく、私は去年と同じく彼ら以外のコンビに優勝してほしいと切に願っていた。しかし、彼らは一回目と同じようなネタはしなかった。決勝トーナメント3組目として登場した彼らは「見せ算」というネタを披露したのだ。

空気が変わった。

それまで令和ロマンとヤーレンズが笑いを巻き起こしていた会場内がシン――と静まり返ったのだ。

観客は「見せ算」という独自のルールを理解するために頭を働かせる必要があった。そのルールを理解した上でなければ笑うポイントが分からない。
よほど集中して聞いていなければ理解の難しい内容であった。笑いは起きていたが、おそらく途中で考えることをやめた観客も多かっただろう。

私はというと、このさや香の決勝ネタを見て「ええやん、さや香」と思った。

M-1は芸人にとって大舞台である。普段お笑いをそこまで見ない層にも、年末の風物詩として見てもらえるため、新たなファンを獲得する機会となる。無名の芸人にとっては、結果を残せれば一夜で一躍人気者になることもできる夢の舞台だろう。ファイナリストたちは次の年から様々な番組に出始める。仕事が増えれば収入も増える。となれば優勝を目指すのが当然というものだろう。

そんな中、さや香の場合ははたして優勝を目指していたのかどうかという気がした。本当に優勝を狙っていたのであれば、見せ算はやらずにM-1に合わせたネタを決勝で作っていたのではないか。

さや香の二人には「自分たちの笑いをやろう」という姿勢を感じた。M-1で優勝しなかったとしても、「さや香」というコンビが既に認知されている=結果を残せているという面もあったかもしれないが、「見せ算」を披露してくれたことによって、「なんか気にくわない」とさや香のことを思っていた私が、彼らのことを好き……とまではいえないが「ええやん」と思わされた。この振り幅はすごい。知らなかった令和ロマンやヤーレンズよりも、上昇っぷりは半端ないのだ。

さや香のM-1での姿を見て、私は自分自身がやっていることへの姿勢を見つめなおすことになった。あらゆる層への配慮ばかりを考えて無難になってやしないかと、そんな風に思わされたのである。真意はもちろん分からないし、お笑いファンというわけではないので、今後も逐一チェックしていくことは今のところ予定としてはないが、気軽に観ていたはずのM-1グランプリで心突き動かされることがあろうとは思っていなかったので、余計に響き、ここに書いてみた。

令和ロマンもヤーレンズも良かったが、「ええやん」と思わせてくれた「さや香」が、私にとってのM-1王者である。