今回は、ここ最近読んだ本の中で一番衝撃を受けたオードリー若林さんのエッセイを紹介したいと思う。
お笑い芸人のオードリー若林さんは、これまでに三冊のエッセイを出版している。
一冊目はダ・ヴィンチでの連載「オードリー・若林の真社会人」を書籍化した『社会人大学人見知り学部 卒業見込』だ。これに新たなエピソードを加筆して文庫化した『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』がある。
二冊目は書き下ろしの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』だ。キューバへの一人旅のエッセイで、これに「モンゴル」「アイスランド」「コロナ後の東京」を加えた文庫版もある。
三冊目はダ・ヴィンチでの連載「どいてもらっていいですか?」に書き下ろしを加えたエッセイ『ナナメの夕暮れ』だ。こちらも「明日のナナメの夕暮れ」を加えた文庫版もある。
(正確には『ご本、出しときますね?』という本もあるが、若林さんが司会進行を務めるテレビ番組の書籍版なのでここでは割愛させていただく)
『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』は角川文庫から、『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』と『ナナメの夕暮れ』は文春文庫からと出版社は違うのだが、私は読んでいて「これは三部作だ!」と感じた。私は人見知りなのだが、人見知りの視点からいうと若林さん自身が次第に変化していっているのだ。どれから読んでも全く問題はないのだが、もしこれから読まれるのならば一冊目の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』から順に読んでいただきたい。
さて前置きに入るが、私のーさんは人見知りである。
といってもいつでもどこでも人見知りというわけではない。職場でも家でも人見知りを発揮するわけではないし、読書会でも同じくだ。
たとえば街中ですれ違った人に「ハンカチ落としましたよ」なんて声かけられれば「それは私のではありません(タオル派)」と即答できる。
要するに慣れた人や場所だったり、逆に初対面の人に人見知りするタイプではないのである。だが、微妙な関係にある人がいると途端に人見知りを発揮するタイプだ。と、自己分析している。
普段の生活に支障がでるほど困ってるわけではない。だが、今現在二つほど困っていることがある。
一つはもう随分と昔からの悩みの種なのだが、親族の集まりである。妻のほうの親族とどういう距離感で接したら良いのか分からない。義父母だけならまだ良いのだが、義弟や義弟の奥さん、義妹や義妹の旦那さんとかとは微妙な距離感だ。もういっそ三十年に一度会うくらいで良いやとか思っている。親族の特定の誰かが嫌いとかそういうわけでは全然ないのだが、親族が集まる場に顔を出すと非常に居心地が悪くなる。何度やっても、どうしても慣れることができないのだ。
私と妻、義母、義妹の4人で某アイドルのコンサートに行くことがあった。皆が好きなアイドルだったので、人見知りであることを忘れて私はついホイホイと行ってしまった。コンサートが始まる前に食事を取ろうということになりマクドナルドへ寄ったのだが、しばらくすると義母が注文をしに、妻がトイレに行ってしまったため、テーブルには私と義妹の2人だけになってしまった。義妹とはそれまであまり喋ったことがない。4人で来たとはいえ実際のところは私と妻、義母と義妹の2人組があわさっただけの関係である。よりにもよって一番遠い位置にいる人と2人きりになる時間が訪れてしまうとは……!私は妻か義母が早く帰ってくることを願った。この時間が早く終わることを願った。しかしなかなか帰ってこない。疑心暗鬼モードが入る。これは妻と義母が仕組んだ罠ではないか!?
いやしかし逆に考えればこれは確かにチャンスである。義妹と一言二言かわすだけでも今後の関わりは変わってくるだろう。この機会にちょっとでも距離を詰めることが出来れば、次回会ったときに気軽に挨拶できるくらいにはなれるかもしれない。しかし結果は互いに目を合わせないまま終始沈黙を貫いただけだった。この沈黙の辛さよ。目の前に人がいるのに携帯を取り出すのは失礼にあたるし、互いにうつむくしかなかった。妻と義母が戻ってくると、まるで停止していた時間が動き出したかのように私は妻と、義妹は義母と喋り始めたのだった。私はコンサートが始まる前にいたたまれない気持ちになった。それを発散するかのようにコンサートでは「イエーイ!!フゥゥゥ!!」とひときわ声を張り上げた。
他にもある。
実家に顔を出しに行った帰り、義妹の旦那さんと帰るタイミングが一緒になることがあった。義妹の旦那さんともお互いに顔は知っているが喋ったことはない。せっかくの機会だ。これも一言二言喋りかけただけで関係性は変わっていただろう。しかし人見知りを発揮した私は寝たフリ作戦を敢行した。旦那さんの相手を妻に任せっきりにし、私は席に座って眠ったのである。社会人としてこれは失格である。いや、もう人間として失格である。
そんな風に仲良くなるチャンスを棒に振りまくるという経験を積み重ねてきた。たった一言二言喋れば良いだけである。それは分かっているのだ。ちょっとだけ愛想を振りまけば良い話である。これが仕事であったならば出来るのに、プライベートのこととなると分かっているのに出来ないのだ。私のナナメな部分が「うわ、こいつ愛想振りまいちゃってるよ」と囁きだすのである。途端に恥ずかしい気持ちが勝ってしまい動けなくなるのだ。
ただまあ親族の集まりは年に数回の出来事である。やはり嫌なものは嫌なのだが、最近は「年に数回しか会えないのだから会えるときには会っておいたほうが良いかも」と、ちょっとだけ気持ちが変わり始めているところだ。やはり嫌なものは嫌であるし、上記のように義妹や義妹の旦那さんとは関係を作るどころか自分からマイナス点を作ってしまっている状態ではあるのだが。
それよりももう一つの方が今の私にとっては大きな問題となっている。
ママパパ問題である。
コロナ禍だったこともあって、これまで保育園での行事はほとんどなかった。子どもたちの親と顔を会わせる機会は登園降園のときくらいで、すれ違ったら挨拶は交わしていた。
SNSで子育て仲間を作ろうともしていないので、今現在ママパパ友繋がりから始まった交友関係はない。職場には何人か子育て中の人たちがいるので、そういう人らと子育てトークするくらいで事足りてもいた。
ところが、子どもが3歳近くになって事態が変わった。
子ども同士の付き合いが増えてくるのだ。当然、子どもだけで過ごすわけではないから親も付き添わなければならない。自分一人のことであればテキトーなところで切り上げることも出来るのだが、子どもメインとなるとそうそうコントロールできるものではない。
保育園が終わると我が子は近くの公園へ直行する。止める間もない。そこには大抵同じクラスの子がいる。我が子が無邪気に遊んでいる間、私は虚無の顔になる。我が子はお友達のママに抱きつきに行ったり、一緒に遊んでもらったりもしてるのだが、そういう姿を見ていると相手方に対して申し訳ない気持ちになる。
休みの日に公園に行ったりするときには私も楽しくしてるのだが、平日の保育園降園後の公園は早く帰ろうぜ早く帰ろうぜと念仏のように唱えている。
平日は帰ったあとに夕食、お風呂、片付け、寝かしつけ、次の日の準備(自分のも含む)とやることが沢山あるから、公園で遊んでいる時間はない。休日も無論同じことをする必要はあるが、公園に遊びに行く前にある程度準備しておくことが出来る。時間の余裕があるかないかの違いはあるが、それよりも同じ保育園の子が公園にいるかいないかで随分と態度が変わっていると自覚している。
こちらもママさんパパさんたちに一言二言話しかければ良い話ではある。だが、出来ない。迎えに来るパパは少なく、ほとんどの家庭はママが迎えに行っている。変に話しかけたら噂になったりやしないかと思うと下手に話しかけられない。しかし我が子は他のママにもグイグイと行っている。降園後の公園ママパパ問題は全く解決していない。
こないだ久しぶりにストレスが暴発した。
爆発ではなく暴発である。
ストレスが一定値を超えると私は何もかもがどーでもよくなって普段は口にできなかったことをきつめの言葉で吐いてしまう。一定値がどこなのかは目に見えるわけではないが、「あー今ストレス溜まってるな」というのはなんとなく分かる。そういうときには何らかの発散法を用いてガス抜きをする。いきなり爆発しないように努めているのだ。最近ではノートに日記を書くという行為が効果的だったのだが、ここ三か月くらいはめんどくさくなってやめてしまっていた。自分を律するよう努めていたのだが、まだまだである。
何が一番ストレス値をためていたかというと、近々親族の集まりが予定されたことだ。その日程調整の話が出てからというもの、私のストレス値は指数関数的に増加していた。と、暴発したあとならば冷静に分析できるのだが、増加している間は気付かなかったので暴発してしまったのであった。
先々に嫌な予定が入ると、当日までの間ずっと「嫌だなー嫌だなー」となり、ストレス値を増加させていってしまう。当日だけの話ではないのだ。親族の集まりは特にそうで、むしろ当日よりも当日までの間が厄介なのである。そうなると微弱に感じていた他のストレスたちが過敏に反応し、普段ならばさらりとかわしていたようなことにも反応し怒ってしまったりする。そしてめちゃくちゃな発言をして相手を困惑させる。
……前置きが長くなったが、私は人見知りであったことを自覚してはいつつも解決法を見いだせず、円滑なコミュニケーションをとることが出来ないことが多々あった。あの時ああしてればよかったな、あの時なんであんなことしてしまったんやろ、と反省することが非常に多く、自己嫌悪に陥ることもしばしばだ。スーツをビシッと着こなしてシャキシャキしている人を見ると「すげーな」と、実際どうなのかは置いといて勝手に劣等感を抱いたりしている。人見知りというのを言い訳にしているのかもしれないが、分かっていても出来ないことは多々あったりするのだ。
そんな私が「うんうん!そうそう!」と共感しながら読んだのが、オードリー若林さんの一冊目だ。ようやく本題に入ろう。大変長らくお待たせいたしました。
こちらが一冊目の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』だ。
お笑い芸人のオードリーは2008年のM-1グランプリで2位になりブレイクした。それまでは若手芸人としての下積み時代を過ごしていたので、テレビに出るようになってからようやく社会というものに参加しているという実感を若林さんは得たのだという。当時若林さんは30歳だったが、社会という場で起こる様々な出来事に驚きの連続だった。この本ではその社会人一年生からの驚きや発見が書かれている。
人との付き合いや自身のコンプレックス、内面との向き合い方など、読んでいると「分かる分かる!」というエピソードがちりばめられている。若林さんは南海キャンディーズの山ちゃんと二人で『たりないふたり』という番組をやっていたのだが、その話も入っていたり、ちょろっとだけ相方の事も書かれていてコンビ愛を感じることもできる。
実は私がこの本を読んだのは随分と前だった。この本だけの感想でいえば、「この気持ち分かる!」と共感することが出来たり、毒を吐く姿にスカッとしたりで楽しく読めるエッセイである。それだけで終わってしまっていた。変わったのは二冊目を読んだからだ。
『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の冒頭で、若林さんはとあることに気づく。それは自分の悩みの正体だ。そして自分の著書『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』をゴミ箱に捨ててしまうのである。
二冊目は『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』だ。
正直なところ気にはなっていたものの読むことがなかったのは、舞台がキューバだったからだった。あまり馴染みがなく、旅行の話か〜とつい敬遠してしまっていたのだ。だが、読み始めてたった30ページでグッと心を鷲掴みにされた。もっと早く読んでおけば良かったと後悔した。
若林さんは一年前から家庭教師を雇い勉強を始めたそうだ。ほとんど初めて世界史と日本史の教科書を真面目に読んだ。すると、自分がこれまで悩んでいたことの正体が何だったかに気づいた。そして『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』をひとつの儀式としてゴミ箱に捨てるのだ。
若林さんが気づいた正体が何か、というのは、ぜひ本を買ってご自身で読んでいただきたい。ここで書いてしまって勝手に読んだ気になってしまうのは非常にもったいない。17〜35ページの実質19ページなのだから、とりあえずそこまで読んでみることをオススメする。なぜキューバだったのか、なぜ旅に出ようと思ったのかも本では明かされている。
この本が面白くて、私は読み終わる前に『ナナメの夕暮れ』を買った。途切れることなく続きを読みたかったからだ。
三冊目は『ナナメの夕暮れ』だ。
若林さんの大ファンというわけではないのだが、バラエティが好きなのでテレビをつけるとだいたい若林さんは出演している。huluでたりないふたりも観ていた。
ある日の番組か何かで若林さんは「人見知りじゃなくなった」という発言をされていて、当時の私は衝撃を受けた。人見知りな人間は永遠に人見知りだと思っていたからだ。人見知りって克服できるの?!と、かすかな希望を抱いたのである。
実際、ブレイク後のオードリーといえば春日が前面に出ていて、若林さんは春日に比べると(比べる相手が相手だが)目立ってはいなかったように思う。しかし今は単独で出ていることも多く特にMCをしていることが多い。オードリーは二人とも自分の持ち味を生かして輝いている。
三冊目の『ナナメの夕暮れ』では、若林さんはもう人見知りではなくなっている。40手前にして変化が訪れているのだ。
冒頭で私自身も人見知りだと書いたが、実際のところ昔と比べるとだいぶマシになってきている。嫌なことは沢山あるしいまだに人見知りを発揮することはあるが、様々な経験をしてきたことで対処法も分かってきた。対処できないことには極力近づかないという防衛策も身に着けた。
一冊目の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』では社会人一年目から始まり、様々な出来事に一つ一つ若林さんの目線でナナメに捉えてきた。けれど、生きていると「あ、こんな経験前にもあったな」という出来事が増えていく。新鮮味はなくなっていく。
『ナナメの夕暮れ』は、前2作と比べると読み進めるのに時間がかかるかもしれない。本としてのまとまりがないからだ。だが、そこがこの本の良さである。
朝井リョウさんが解説で書かれているのだが、この三冊目は「社会や人生というものに対する反発でも受容でもないグラデーションの感情が多く描かれている」のである。このグラデーションは読む側の私たちも経験していくことだ。
人見知りという厄介な同行者と付き合っている人にとって、この若林さんの著書3冊は道標となるのだ。人によっては今まさに『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』の時期の人もいるだろうし、そこからちょっと抜けて『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の時期の人もいるだろう。ちなみに私は今ここだ。そして、二つの時期を超えて『ナナメの夕暮れ』を迎える。
今自分がどの段階に立っていたとしても、この三冊のどこかの部分が寄り添ってくれるのだ。この安心感は半端ない。人見知りの方、なんか生きづらいな~と感じている方は、ぜひ手に取って読んでいただきたい。本棚におさめておいて頂きたい。そしてふらっと本を手に取って読んでふっと笑えば良いのだ。それだけで気持ちはすっと軽くなるだろう。
以上で今回の推し本紹介は終わるが、最後にこの3冊を読書会で紹介したときのことを補足として書いておこう。
あ、この記事で「読書会」という言葉を初めて知ったよという方向けに説明をしておくと、読書会とはざっくりいうと「本が好きな方が集まる会」である。本好きのサークル・コミュニティだと思っていただけたら良い。私は彩ふ読書会という読書会の主催をしていて、皆がおすすめしたい本=推し本を紹介しあう形式の読書会を開催している。ホームページのトップページはこちら。
2022年9月17日の読書会で私はこの本を紹介した。
だいたい上に書いたようなことを読書会の場でもお伝えし、3冊を3部作として紹介した。読書会の場では紹介された本に対して他の参加者から質問等をもらう機会がある。そこで「オードリーの若林さんといえば、しくじり先生の印象があって、ズバズバ物事を言う人だと思ってた」というような意見があった(うろ覚えなので若干違うかもしれないが)
確かにテレビに映っている若林さんだけでは人見知りだという印象を持たないかもしれないなと思った。そういう印象を持っていない方が読むとギャップもあって面白いかもしれない。
あとこの本の読み方・捉え方についても質問があった(確か)
その時は咄嗟に答えたが、改めて考えてみる。
この本を読んだからといって人見知りを克服できるというわけではない。克服しようと思って読み進めると期待外れということになる。ただ、人見知りであることに悩んでいる方にとっては「私以外にもいるんだ」という共感や安心感を得られることは確かであるし、若林さんは様々な出来事に毒を吐いてくれるので読んでいてスカッとする部分もある。それが一冊目の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』だ。
人見知りである自分と向き合いはじめて、でもなんでこういう悩みを持ってしまうんだろう?と疑問を持ち始めたころに寄り添ってくれるのが二冊目の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』だ。私はちょうどこの時期に差し掛かっていたので冒頭30ページがクリーンヒットしたわけだが、読む側のタイミングによってはクリーンヒットする箇所は違うだろう。
そして三冊目。私はそろそろこの時期に至るという段階なのでこれからなのだが、人見知りすること自体に変化が訪れているころに寄り添ってくれるのが『ナナメの夕暮れ』だ。まだこの段階に至っていない人も、これからそうなるのかなと期待が持てて道標になってくれる本である。
上にも書いたが、人見知りの人にとってはこの三冊のどこかの部分が寄り添ってくれるのだ。若林さんが寄り添ってくれるのである。
人見知りや生きづらさを抱える人類に告ぐ。
この3冊を読みたまえ!
……ふざけるのが流儀のはずだが今回はわりと真面目に書いてしまった。しかも文字数7500超えである。もうそろそろ終わることにしよう。
それでは、また。