以前「私は死ぬことが怖い」と書いたことがある。いつの記事だったか忘れたのでリンクは貼れないけれども、ここ最近少し心境の変化があったので書いておこうと思う。
人はいつか死ぬ。私自身ももちろんいつかは死ぬ。天寿を全うするかもしれないし、事故や病気で死ぬかもしれない。どんな死に方かはそのときがくるまで分からない。自分自身の「死」について考え始めると体の奥底から何やらヒュッとした感覚がやってくる。あ、これ以上踏み込んじゃいけないなってところまでいきそうになって、酒やら何やらを駆使して思考を紛らわせる。相変わらず死ぬことを考えると怖いなと思うのだけれども、先日妻が発した一言がちょっと面白かった。
「YOUがいきなり死んだときに(備えて)、何がどこにあるか教えといて。ていうか一箇所にまとめといて」
なるほど、私が死んだら妻にはめんどくさい手続きが待っている。葬式の準備をしたり死亡届を出したり相続やら保険やらの手続きをしたり……一番めんどくさい作業に追われるのは妻なのである。何がどこにあるか分からなければ、手続きをする前に「書類を探す」という作業も加わる。妻はめんどくさいことが非常に嫌いなので、多分この「書類を探す」という段階で色々と挫折する。それでもやらなあかんことは沢山あるので、妻は親に協力を依頼するであろう。妻の緊急招集によって親族総出でこの事態に取り組むことになるだろう。私が妻に隠れて持っているあれやこれやの品が妻だけでなく親族にもばれてしまう。私が生前積み上げてきた良い人イメージが一気に崩壊するだろう。こりゃヤバイ。
私の葬式には、読書会で知り合った方々にも参列してもらいたいなと思っている。Twitterやホームページを駆使して「のーさん死亡に伴う葬儀開催のお知らせ」という最後の企画を催すのだ。初参加の方も大歓迎!しかし、しかしだ。私が死んだら一体誰がTwitterやホームページを動かすというのだ。私以外にIDとパスワードを知っている人はいない。ノートにメモはしているが、そのノートがどこにあるかは誰にも教えていない。
私が死んだら銀行口座やクレジットは停止するだろうから、ドメインやサーバー代の支払いが滞ることになる。そうなるとホームページは閲覧不可能になる。彩ふ読書会経由で私を知って下さっている方々が私の死を知る術はなくなる。彩ふ読書会は私の人生そのものだなんてのたまってたくせに辞めたんだーなんて思っちゃう方もおられるだろう。積み上げたものを壊したくなる衝動持ちなのでついに壊しちゃったかなんてしか思われないだろう。
妻の一言で、死ぬのが怖いなんて怯える前に、死んだあとのことも考えておかなければおちおちと死ねないのだと気づいたのである。そして死んだあとの手続きについては漠然としか知らないことにも気づいた。死ぬ瞬間がいまだ怖いとしても、死んだあとのことならば、逆にある程度準備が出来る。不安の正体をひとつひとつ解明してみて、輪郭をおびさせることができれば、怖さは少し軽減するかもしれない。いわゆるエンディングノートみたいなものを作っておくことは、私自身にとっても妻にとっても、「死」というものに対しての安心材料になりそうだなと感じた次第である。
グーグル先生で「夫が死んだら」と検索してみた。すると結構いっぱい記事が出てきた。夫が死んで悲しいですよねとか葬式はこういう手続きで~みたいな話が出てくるのかと思いきや、トップページにずらりと出てきたのは相続の話だった。金の話である。悲しいけれどこれ現実なのよね。先立つものはいつだって金なのだ。
仮に今この瞬間、私が死んだとしよう。
場所は自宅でも外でもどこでも良いが、どこで死んだとしても妻に連絡は入る。妻は慌てて病院へ行き、私の死亡を確認する。嘆き悲しみ涙を流してくれるだろう。しかし、そんな悠長に涙を流している暇はない。私の実家への連絡、妻の実家への連絡、葬式をどうするか、期限付きの様々な手続きが待っている。
死後四十九日以内にやっておきたい手続きとして「死亡届出の提出」「世帯主の変更」「健康保険の資格喪失届出」「国民年金・厚生年金の資格喪失届出」「住民票の除票の取得」と出てきた。夫の死後1年以内に済ませておきたい手続きとして「相続放棄」「故人の所得税の準確定申告」「相続税の申告」「遺留分侵害額請求」と出てきた。
め、めんどくせえええええ!
これ間違いなく妻は放置する。絶対やらない。となれば私がやっておくことは一つ。やることリストを作っておくことだ。事細かく。これを作り終えるまで私は死ねない。
というわけで、ぼちぼちとではあるが、私が死んだあとのことを考えておこうと思う。もちろん、当分死ぬ気はないが、テキトー人間なので自分のことなのに覚えていないことが多い。どんな保険に入っているかとかあんまりちゃんと覚えていない。あとわりと記憶力は良いほうだと思っていたのだけれども、最近結構思い出せないことが増えてきている。記憶のとっかかりだけでもメモしておかなければ、いずれ私は私という存在自体を保てなくなる気がしている。諸行無常。世の中のすべては移り変わる。無論、私自身も様々な変化をしている。たとえば高校生のときの私と、今の私とでは外見も内面も随分と違う。二年前の私と比べたってそうだ。外見はあまり変わっていないかもしれないが、考え方はだいぶ変わってきている。今が常に最新版としてここに在って、今が私史上最高の出来だったとしよう。今と比べたら昔の私は随分と未熟である。だが、未熟だったから無謀にも挑戦できたこともあり、そのころの自分があったからこそ今が今の私でいられる。そう考えれば全ての私と、私の周囲にあった全てのものが愛おしいと感じてくる。しかし、そのころの記憶が消えてしまえば、愛おしいと感じることはできない。せめて思い出すとっかかりだけでも残しておかねば、思い出を思い出すことすらできないのだ。ただ、メモする時間があればメモをするかというとそうでもなく、時間があれば本を読みたくなるし、ドラマや映画を観たくなる。何か真新しいものを得ようと先に進んでしまって後ろを振り返らない。いやはやなかなか難儀なもんである。特にオチはないがこれにて終わろう。終わり。