昨夜のカレー、明日のパン、未来の「べき」はバッキバキ

「そうするべき」

 

「こうあるべき」

 

「~でなければならない」

 

といった言葉を聞くと、つい逆走したくなるワタクシです。コンニチハ(  ̄ー ̄)ノ

 

本当にそうなのかな?

 

それしか選択肢はないのかな?

 

と、つい考えちゃうんですよねー。

 

たまーにブラックのーさんバージョンの時は、その発言相手がいる前で見せびらかすように「べき」でないことをやっちゃう時もあります(笑)べきはバキバキっとね!

 

今は「ゆるーくいこうぜ!」な考え方の持ち主ではありますが、ワタクシにも「こうあるべきだ」と考えていた時期があります。主に仕事についてではありますが、利用者さんとの関わり方って本当様々で。

「あ、こんな関わり方もあるのか!」という良い発見があればコンビニ人間の古倉さんのように自分の中に取り入れますし、「それはどうなの?」という関わり方においては反面教師とさせてもらってます。

この反面教師、今は反面教師にしよ~くらいのテイストで見れるのですが、「それはあかんやろ。関わり方はこうあるべきだ」と考えていた時期がありました。自分自身がどうかは棚に上げてですけども(同じようなことやっちゃってますからね……笑)

自分が正しい。相手は間違っている。そんな思考に陥っていた私が変わっていったのは、とある上司が放った言葉です。

仕事の飲み会って大嫌いなんですが(笑)その時はたまたま参加していて、たまたまその上司と話す機会がありました。上司といっても上司の上司のそのまた上司くらいの偉い方。偉いのに偉そうな雰囲気はなく、こっそり尊敬しているお方です。面と向かっては言わないけれど。

そんな偉い方に向かって、私は持論を展開しました。それこそ「~するべきだと思うんですよ!」と一つ一つの細かいケースを取り上げて、会社の、業界の、あるべき姿、理想を語りました。

そのケース一つ一つについて「べき、ということは何もないんだよ」と諭す上司。諭されるワタクシ。

元来頑固者なので、その場で納得するわけはないのですが、この「べき」を取り除かれていくうちに「もう何も言えねえ……」状態になりました。これが、もう六、七年前の話です。まだまだ新人だった頃ですね。

この話を思い出したのは、2/3の課題本・昨夜のカレー、明日のパンを読んだからです。序盤に出てくる「ひとことで救われることもある」といった言葉で思い出しました。まあ具体的に言えば一言ではありませんが、このエピソードが私を変えてくれた一つのキッカケだったことは間違いありません。

あの時に自分が語ったことって、単に自分にとって都合の良い環境にするためのものだったんじゃないかな?と今では思います。

自分がもっと働きやすいように、自分を認めてもらえるように、そんな環境にするために、「べき論」を展開し、一般常識や知識といった虎の威を借りて世界を構築しようとしていたのではないかなーと。

あれだけ言ったのに結局何も変わらないんだな、という諦めもありますが(笑)ありますが、自分一人だけが存在する世界ではないのもこれまた事実で。自分の思い通りにいかないことなんて沢山あって。

人と人、二人以上人が集まればそこに何かしらの関係性は生まれてくる。互いに尊重しあえるような環境を維持するには、ルール的なものも必要になってくる。ルールがなければ声の大きな人、強い人が強いままで、声の小さな人、弱い人は強い人に虐げられているといっても強すぎる言い方ではない。笑っているとしても、それは本当に笑っているのか?

 

声なき声を聞け。

 

これは、個人的にはよく聞く言葉です。

 

いわゆる障害福祉は高齢者福祉とはまた違うなーと最近特に思います。出来ること、出来ないことの線引きはまだ曖昧で、だけどそこが良い面でもあって、悪い面でもある。それこそ一人一人違うから、厳格にルールを定めてしまうと、そこから漏れてしまう人、当てはまらない人が出てきてしまって、存在そのものを否定してしまうことにもなりかねない。

 

そんな現場にいるからこそ、自然と「ゆる~くいこうぜ!」って思考になったのかな?と思ったり、思わなかったり。まあまたいつものように何を言いたいのか分からなくなってきましたが、ここは上司の言葉で締めくくっておきましょう!

 

べき、ということは何もないんだよ。