読書会を通しての居場所作り ~ヤングケアラー特集から考える~

たまたまテレビをつけていたらヤングケアラーの特集が始まった。

ヤングケアラーとは、祖父母や両親の介護、病気や障がいのある家族の世話などを日常的に行う18歳未満の子どものことだそうだ。

ヤングケアラーの方と実際にお会いしたことはない。年の差もあるし支援する職種でもないので、当事者の方々と自然と会うことは難しいだろう。もしかするとどこかで会っているのかもしれないけれど、そういったことを誰かと話題にしたことはない。

当事者とは遠いところにいる人間だけれど、テレビを見ていて目が離せなくなった。チャンネルを変えずに最後まで視聴した。

障害のある弟のいる姉は、友達と弟を絶対に会わせたくなかったのだという。けれど親友には打ち明けた。すると「そうなんだ」と親友はこともなげに答えた。それまで隠してきたことを打ち明けることができて、しかもそれを親友がふっと軽く受け止めてくれたことで、ヤングケアラーの彼女はすごく楽になったのだという。

自分や自分の身近な何かを隠すということは、自分の人生の一側面を隠すということになる。やましいことではなくても、やましいと思っていることでなくても、隠すという行為をしながら「普通」を装うのは想像以上に辛い、と思う。

昔はヤングケアラーという言葉自体がなかったから当事者同士が繋がる場所がなかったが、言葉が出来たことによってそういうプログラムも生まれ、支援が始まっている。まだまだ足りない現状はあるが、ヤングケアラーの方同士で会うことができて、弟の存在を隠す必要のない場所があるということは、当事者にとってはふっと気持ちを軽くさせてくれる場所だろう。私は人をカテゴライズすることもされることも嫌いだが、そういった集まる機会が生まれるのならばそれも一つの方法ではあるなと思った。

「かわいそうだとは思わないでほしい」とヤングケアラーの彼女は言った。それはそうだ。ヤングケアラーであることはその人の一つの側面ではあるが全てではない。他を見ずして勝手に思い込むのは間違いだ。

ヤングケアラーの方と対談していた精神科医の名越さんはこう言っていた。

「居場所は色んな人に必要だと思う」と。

原点を振り返る。

2017年11月、私は大阪で読書会を開催した。当時の私は自分の居場所が欲しかったのだと思う。自分では気づいていなかったが、孤独さを感じていたのだ。参加者の方に言われて、「あ、そうだったんだ」と気づき、それが私の主催する彩ふ読書会のコンセプトとなった。

今は自分の問題は自分で折り合いをつけることが出来るようになったし、ある程度言語化出来るようにもなってきたし、何より家族や周囲の方々、読書会で出会った方々に支えてもらえている。けれど当時はそうではなかった。

「本が好きな方々の居場所作り」

今では寝言で繰り返すくらいには自分の中で定着しているが、読書会を始めた当初は自分でも分かっていなかった。あのときあの一言がなければ読書会自体が違う形になっていただろうし、コロナが落ち着いたらまた読書会をやろう、という気持ちすら持たなかったかもしれない。

ヤングケアラーの方同士、本が好きな方同士。それだけを見てみると必要性の度合いは違うだろう。確かにそうだ。けれど度合いの大きさが重要なわけじゃない。比較したいわけでもない。ただ、アプローチの仕方が違うということは言っておきたい(檸檬堂鬼レモンアルコール9%飲み切る)

本が好き、という一点で集まれるということは、誰のバックグラウンドも問わないということだ。本が好きであれば良い。性別も年齢も職種も障害も病気も何かしらの悩みを抱えていても、本が好きであれば参加することが出来る。

ごちゃまぜで集まれる場だ。

推し本披露会なら好きな本が一冊あれば参加出来るし、それは小説でもビジネス書でも絵本でも構わない。特に好きな本はないな〜という人でも課題本読書会ならその課題となった本一冊さえ読めば参加出来る。

本を通して自分を語るのも良いし、あえて語る必要もない。紹介の仕方も感想や意見も自由だ。本は、読むそれだけで楽しいのはもちろんだが、人と人との間にやんわりと立ってもくれる。

読書会で知り合った人同士が、また別の繋がりを持つこともできる。枠を飛び出すことが出来る。ないと困るものではなくても、逆にそういった気軽さを持ち合わせている。

そう思うのは、当事者同士で集まると、今度はその枠から飛び出せないという課題が、私にとってはあったからだ。

私は障害福祉の世界に携わっている。今でこそ他事業所との繋がりも出来ているが、様々なサービスを展開しているところはその事業所だけで全てを完結させてしまうことができる。

障害のある方にとって、福祉の世界だけで完結することは、果たしてどうなのだろうか?ともすれば同じ事業所のサービスだけでその人の人生全てが完結しているようならば、私はそれは自分の意思で決めた人生なのか?と問いかけたくなる。

かといって、じゃあその先に何かあるかと調べても、その先には何もなかった。あるにはあるが合理的配慮というものがない。ならば自分たちで作ればいいじゃあないかとも考え、実行した。しかし、障害のある方々が主催した何かというものは、そういったフィルターがかかってしまう。福祉というものが先に顔を出してくる。元々福祉に携わっているものしか結局集まらない。携わっていない人にはかすりもしない。

そうじゃない。

仮初めの集まりでただ自己満足しているだけの光景を見て、何だかなあなんて思った(ストロングゼロ柚子ダブルアルコール9%飲み切る)

私は気がつけば交流している、ということを目指したいのだ。障害があろうとなかろうと、最初はビクッとはなるかもしれない。けれど、何か違う側面からのアプローチをすることで、隠すわけではなく障害が気にならなくなる。

私の経験上「障害」と書いているが、これは色んな側面に置き換えることが出来る。冒頭に出したようにヤングケアラーの方でも置き換えることが出来るし、他のことにも置き換えることが出来る。

読書会だけでそれらが解決するわけではない。当事者同士で集まって解決することのほうがむしろ多いだろう。けれど先ほども書いたような度合いじゃあない。

どちらが、ではない。どちらも、あればあるほど良いのだ。

そんな私の崇高wな目的なんて知らんよ、本の話をさせろよ、という方もおられるだろう。もちろん、純粋に本の話がしたい人も大歓迎だ。そこを排除してしまったら、私が以前失敗したことと何ら変わりがない。これは私個人の目的のようなものだし、読書会としての目的は「本が好きな方々の居場所作り」で変わりない。このような記事はあえてTwitterでも発信はしないし、こっそり書いている。ふとした時に読んでもらえれば、それで良いのだ。

どちらにせよコロナ禍で仕切り直しとはなってしまったので、また一から積み上げていく必要がある。

居場所「作り」としたのは居場所は作り続けるもので終わりがないからだ。自己満足で終わらせたくないからだ。死ぬまでやってるだろうし、死んだらどうするか、はまだ考えてないけどそういう仕組みも考えていこうとは思っている。いずれにせよ、私一人だけでは限界がある。

私が私自身の孤独から解き放たれたように、もしこの読書会を通して孤独から解き放たれたのなら、次は貴方が誰かに寄り添うような立場を担ってほしい。たかが一読書会かもしれない。たかが一個人の戯言かもしれない。でもヤングケアラーの子が親友に救われたように、その人の気持ちを軽くするのに大勢の力はいらないのだ。たった一人でも出来ることなのだ。貴方の言葉が誰かの気持ちをふっと軽くしてくれるかもしれない。

そうしたサイクルが生まれてほしいなと思うし、そうした場が作れたのなら本望だ。

今日は檸檬堂から入ったからか酔いが早いようだ。なんだか若干ぐだった気もするが、あまり真面目に考えすぎても頭が痛いだけなのでもうここらへんにしておこう。

コーヒーを飲んで今日は寝ることにしよう。