最後は華々しく?

先日の課題本読書会は高野和明さんの「幽霊人命救助隊」だった。

作品自体が自殺者を救助していくというお話のため、生きること、死ぬこと、自分が死ぬこと、大切な誰かがいなくなること、その時、自分はどう感じ捉えるのか。折り合いをつけていくのか。そんな話になった。感じる事は結構沢山あったのだけれど、今回はそのことについて書いていきたいなと思う。最近おふざけが過ぎていたので、久しぶりに真面目な記事投稿である(高低差ありすぎて耳がキーンってなるやつー)

 

 

仕事柄、利用者の方々がお亡くなりになる事は何度かあった。

関わりの深かった人であればあるほど、自分自身の何かがぽっかりと空いてしまうような感覚がある。

『死』というものは誰もが迎える結末で、それはごくごく自然なこと。折り合いのつけかたもそれなりに覚えてきたのだけれど、ここに書かれているような思いだけは忘れないでおきたい。

 


現役看護師イラストエッセイ 病院というヘンテコな場所が教えてくれたコト。
仲本りさ

 

以前、読書会で紹介して頂いた本だ。

紹介者の方からお借りして読ませてもらった。私はここに書かれている後半のエピソードと似たようなことを実際に経験させて頂いた。漫画ですぐに読めるので、医療・福祉関係者には特に読んで頂きたい。

普段ならば読んだ作品はBookReviewというカテゴリの中で記事を書くのだけれど、この作品は何故かずっと書けないでいた。なぜ書けなかったのか今になって分かる。自分の環境にばっちりと当てはまってしまったからだ。今回もこの本に関して書くことはないのだけれど、読んで感じたことを以下に書いていきたいなと思っている。

 

書けなかった作品はもう1つある。いや、実際には結構紹介された本は読んでいたりするのだけれど、自分のタイミングと合わなくて記事に出来ていないものも多かったりする。

 


後悔しない超選択術
メンタリストDaiGo

この本では自分たちが実は日々沢山のことを選択してきていることを知ることができる。

1つ1つ選択してきたことが「今」に繋がっているのだと最近特に思う。そして、あらゆる選択を辿ってきた結果「今」があるのと同様、「未来」も1つ1つの選択の結果としてあるのではないか。

他の所ではどうか分からないけれど、うちの職場では暗黙の了解として、残り時間の少ない方には好きなことをしてもらおうという流れが出来る。

出来る範囲はどうしても限られてくるし、他にも利用者さんはいるので何もかも全てをその方優先とまでは出来ないけれど、割りとその人の意見が通るようにはなるし、普段ならば難しそうなことにもチャレンジしようという風になっていく。そこで試されるのはスタッフの力量だ。

私はその渦に一度巻き込まれ、私の場合は人生のターニングポイントともいえるほどの経験になった。けれど、そんなスタッフばかりではない。なかなか折り合いがつけれないスタッフももちろんいるし、実現したいことが壮大で現実的に不可能なことを追い求めてしまうこともある。逆に何も変わらず、あくまでも仕事として接するスタッフもいる。何が正解かなんて言えないけれど、スタッフとして、人としての姿勢が如実に表れる時ではあるなと感じている。

この流れ自体、年齢層が幅広いからこそ出来ることなのかもしれない。そういった認識があるだけまし、なのかもしれない。けれど私はモヤモヤしている。

 

最後「だけ」華々しく好きなことをやってもいいよ。

 

最後「ぐらいは」好きなことをやりなさい。

 

仮にそう周りから言われて自由になったとしても、その時その方自身から生まれる選択肢は何があるのか。過去に選択し、経験してきたものや興味を持ってきたもの。これらがなければ、選択肢自体が少ないのではないか。

こちらから「こんなことやってみませんか?」と提案してみても、そもそもその方自身が知らなければイメージは湧きにくいし、イメージが湧かなければよく分からなくてチャレンジするのが怖い、不安ということがつきまとって選択肢から除外してしまうのではないだろうか。と考えると、最後だけ何かしようと思っても遅いのではないかと思うのだ。

 

日々生きていく中で、沢山の経験をしていく。

 

選択の幅を広げていく。

 

それこそが大切なことではないだろうか。

 

3個しかない選択肢からやりたいことを選ぶのは本当にやりたいことを選べているのか?100個ある選択肢から選べたら?

 

選択肢があればあるほど良いのかというとそうでもないとは思うけれど、選択肢を奪うことはしたくないな、と私は日々思っている。例えば利用者さんがこんなことしてみたいな、と言われた時、「そんなん出来るわけないやん」とバッサリ切ってしまったら?そのしてみたかった事を断ち切ったばかりではなく、してみたいと思った気持ちそのものをバッサリ断ち切ってしまっていると、私は思う。だからこそ、私は何を言われようとも基本的には「いいね!」としか言わない。現実的に不可能じゃね……?と一瞬思ってしまうことはもちろんある。けれど、何故不可能だと自分が思ったのかを突き詰めてみる。どうやったら実現可能なのかを一緒に考えてみる。チャレンジしてみることは、それこそ後々の選択肢を増やすことにはなるのではないか。チャレンジした結果やっぱり無理だったとしても、じゃあ次はこうしてみよう、と次の目標が生まれるからだ。そういったチャレンジを重ねた上で人生の終わりを迎えた時と、チャレンジをせずに迎えた時。その方の選択肢は全く違ってくると思う。

それを最初からバッサリと断ち切ってしまうことは機会の損失だけでなく、利用者への虐待だと私は感じる。目に見えて分かりやすい虐待ではないからほとんどの人は気づいていないだろうけれど、その方の選択肢ややる気を奪う暴力行為・虐待ではないかと思うのだ。

無論、私たちが関わるのはその方の人生の中のほんの一部だ。私たちに見せる顔が全てとは限らない。この人には私がいなきゃ、という熱意も大事だけれど、案外いなくても生きていけたりもする。私はそんな経験もした。姉と弟の二人だけで暮らしていて大変かと思いきや、実際には10人近くの親戚がその方にはいたのだ。その弟さんがうちの利用者さんで、亡くなるまで私は奮闘した。それこそ「私がやらねば!」という使命感に駆られていたものの、親戚がしゃしゃり出てきた。その利用者さんが亡くなってからの事である。お姉さんの方は親戚が面倒を見ることになったのでそれはそれで良かったのだけれど、彼らは弟さんとは一切関わりを持たなかった。

別の話で、私が担当していた利用者さんのお父さんが亡くなった時、その利用者さんはお父さんの最後を看取ることが出来なかった。お父さんは病室で最後を迎えた。行こうと思えば行けたし、その利用者さん自身も行きたがっていた。けれど、親戚一同から止められてしまったのだ。冷たい言い方だけれど、それはその利用者さんがこれまでに辿ってきた選択の結果である。その利用者さんは父と母と暮らしていて、親戚との付き合いがなかった。親戚との付き合いがあったらまた変わっていただろう。最後の最後にひょっこり現れて主導権を握った親戚たちもどうなんやとは思う。けれどそれは端から見てしまっている私たちの主観に過ぎない。

そこに至るまでの選択を奪っていなかったのか?利用者さんが日々楽しいな、幸せだな、好きなことが出来ているな、と感じることが出来るのが、一番だと思う。それに加えて、周囲の環境についても一緒に考えていくことが出来ればなお良いなと思う。

私たちスタッフ自身もどうなのか、ってのもある。日々楽しいな、幸せだな、好きなことが出来てるな、と思えているだろうか。思えている人もいるだろうけれど、現実的には日々色んなことが起きる。何もかもが全て順調だと言い切れる人はいないのではないか。

しかし、自分自身が経験してきたことを還元することで利用者さんの選択の幅も広がる。これが出来たから、こういったことも次はしてみたいな、っていう期待感とか、ワクワクが生まれる。自分が上手くいってないからといって他者の機会も奪っていいわけじゃない。

とはいえ、こんなことばかり考えいたら身が持たないのも事実。そもそも忙しすぎて考える暇もないとは思うけれど、ふとした時にこういった事を改めて考える機会は必要だなと思う。

終わりよければ全て良し、という言葉がある。

終わりさえ良ければ全部良かったことになるんかいなと私はツッコミたくなる。そりゃあ、終わりが良くなかったら残った側の人間としては後味は悪い。けれど、終わり良ければ過去の全ても水に流せると思ったら大間違いなんではないかな?と、刺々しくも思ってしまう。その結末に至るには、必ず過去の要因があるのだ。

 

 

椎名林檎さんの『人生は夢だらけ』に出てくる歌詞の中に、好きなフレーズがある。

 

こんな時代じゃあ手間隙掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた
きっと違いの分かる人は居ます
そう信じて丁寧に拵えて居ましょう

 

最後だけは華々しく?

 

最後ぐらいは?

 

最後までも?

 

生き様を、どう描いていくのか。

 

丁寧に拵えていきたいものだ。