染まる日

5、6年ぶりに髪の色を限りなく黒に近づけた。黒じゃないけど。これまでも黒っぽくしたことはあるけど、時間が経つと明るくなっていくものにしていた。今回は時間が経っても色は変わらない。次は染めず、これからは地毛でやっていこうかなと思っている。ずっと染め続けてきたので、地毛に戻すのはなんと約20年ぶりだ。地毛とは?はて?くらいのレベルである。

髪の毛が一本でも残っている限り染めていくつもり(美容院はいい迷惑だろうが)だったのに、何故そんなことをしたのか。

「そろそろ年齢的に」というわけではない。私は社会人になっても髪を染め続けてきた。

「髪が傷まないように」というわけでもない。確かに傷んできてはいたが、そこはあまり気にしてなかった。

「染めるお金がもったいないから」というわけでもない。確かにお金はかかるが、私は髪を染めることによって得られるもののほうを優先してきた。

じゃあ何故なのか。

答えは「黒髪のほうが何かと都合が良い世の中」だからだ。

非凡性よりも平凡性を選んだというわけである。

髪の色が違うということは、無意識下にでも相手に何かしらの印象を残す。それが良くも悪くも作用する。黒髪にしていれば、そのような作用はなくなる。「何であの人は髪を染めてるんだろう」とは思っても、「何であの人は髪を染めてないんだろう」とは思わない。疑問が生まれない。

大げさな話になるかもしれないが、私は社会というものに対して抵抗感や嫌悪感があり、反抗的であった。自分という存在を証明したいとかそんなことではなく、これはあるいは日本人特有のものかもしれないが「普通はこう」だとか「こうあるべき」だとか「常識的には」といったものが嫌いだった。その反骨精神を、髪を染めるという行為によって表現していたのである。

学生のうちはまだ良いが、社会人になってからも髪を染めるのは厳しいものがある。実際、新入社員の頃に出席した歓迎会では、隣のおっさんから髪の毛を掴まれて「こんな髪してよお」と、ジョジョのチンピラが言いそうなセリフを放たれたこともある。残念ながらスタンドは発現しなかったが、髪を染め続けてやろうと覚悟を決めた日であった。

しかしながらそんな反抗的な髪色をしたからといってどうかなるわけでもない。何も変わらない。むしろ不利だ。芸能人だとかフリーランスだとか、個性を活かせる仕事ならばまだしも、ごくごくありふれたサラリーマンには不利にしか働かない。私の髪の毛を掴んだおっさんのほうはというと、年を重ねるというだけで昇進している。おっさんはもうすぐ定年を迎える。

世知辛い世の中だ。 

けど、そういう世の中だ。

では、ついに屈したのか。ノーノーノー。髪の毛を染めなくなったイコール反抗的じゃなくなったというわけではない。気質みたいなもんなので変わることはないと思っている。

髪色が変わることで変わるのは、周囲の目だ。

数年前に子どもが生まれた時、周囲の対応は明らかなほど変わった。

それまで得体の知れない存在だった私が「パパ」という分かりやすいカテゴリに分類出来たからだろう。私を同類だと思った面々、つまり子育て真っ最中のパパやママ、あるいは子育てを終えた世代の方々が極端に優しくなった。私自身の内面はさほど変わっていないはずなのに奇妙な話だと思った。だが、ある意味私自身も楽ではあった。

まず休みが取りやすい。「子どもが熱を出しまして」と告げると即座に「そうなん!?はよ帰り!」と近くの誰かが味方してくれて、たとえ仕事が残っていても気兼ねなく帰ることが出来る。

パパやママとの子育て談義にも花が咲く。苦労している部分は同じなので、あるあるトークが尽きることはない。今まで「この人とは何話そうかな」と悩んでいた人とも、子育てという共通テーマが生まれた。

同類だと思われることは、楽なのだ。

しかしこのぬるま湯ともいうべき世界に身を沈めていると、いつしか本当に染まっていくような気がしている。子育ては私という存在を確実に変えているという意識もある。

最近は子どもと一緒にいることが多い。うちの子どもは人懐っこく、知らない人にもぐいぐい話しかけていくタイプだ。一人放っておくわけにはいかないので、子どもが誰かに話しかけに行くと私も従者のようについていかなければならない。初対面の人とその場限りの会話をする機会が増えた。そういう場面に出くわすたびに、わざわざ個性を発揮しようとは思わない。特にこういった場面では子どもが主体だ。私は従者なのである。だがそのとき、髪の色は従者然とした私とのアンバランスさなんておかまいなく主張をする。無意識下にも何かしらの印象を与えてしまう。かわいい子どもが話しかけてきたのに一緒についてきた父親が茶髪パーマのおっさんだったら、相手はちょっと戸惑うだろう。……なんてことを考えてしまうこと自体が、少し煩わしくもなってきていた。

子どもが生まれたことで、私がポリシーとしていたものが徐々に塗り替えられていく。反抗の象徴としていたものが消えていく。これが社会に迎合していくということなのだろうか。私はこの感覚にずっと気味の悪さを感じている。

以前、彩ふ文芸部で『全力疾走』という短編を書いた。超久しぶりに書いた作品だ。
『全力疾走』著者名:ののの(外部サイトに移動します)

出来栄えは置いておいて、ブラック企業の社風に染まる前後を描いてみたもので、今読んでも気持ち悪さを覚える。このような「自分自身の感覚が徐々に麻痺していく様」は、一度私自身が経験したことではある。今は俯瞰して自分を見れるようになったが、やはりこういった感覚には気味の悪さを感じる。

今回平凡性を選んだのは、世の中の「こうあるべき」だとか「普通」だとか「常識」を逆手に取ってやろうという気概もある。平凡に見せかけて、むしろそれらを利用してやろうというのだ。

だが、今はまだ残っている反骨精神も、いずれ消えていくのかもしれない。

もしも、子どもが生まれたことによって今まさに塗り替えられている「現実」を何の違和感もなく受け入れてしまったら。利用してやろうなんて考えているこの思考もきれいさっぱりなくなりそうな気がしている。一体いつまで保つのか。そうなった時、私は非凡な人間であろうとし続けているのか。

はなはだ疑問である。

……と、こんなことを美容院に行く数日前から考えていた。

さて、美容院当日。

さすがにくどくどと上のようなことを述べたりはしない。簡潔に「黒にしようかと思うんです」と美容師さんに告げた。すると美容師さんからこんなことを言われた。

「じゃあ青とかどうですか?」

青!めっちゃ良いな!

もう6年ほど通っている美容院で、私のこともよく分かってくれている。数日前から黒にするつもりだったのでその日は黒にしたのだが、美容院にいるうちにじわじわと青も良いなと思えてきて、帰り際に色々と質問した。数日前から考えていたことは吹き飛んでいた。

次はカットとパーマをあてるのでサイクル的にはもうちょい先になるが、3、4ヶ月後の私は青髪になっているかもしれない。

社会に染まるのはもう少しあとになりそうだ。

と、少しホッとする自分がいた。