ずっと仕様だと思っていたものが実は設定で変えられることに先ほど気づいた!
このホームページはWordpressを使ってるのだけど、いかんせん初心者から脱していないので分からない所だらけだ。使っているうちに「こここうしたいな~」って所は結構沢山出てきていて、その度に目を瞑っている。そろそろ有料テーマを買っちゃおうかななんて思ってもいるのだけど、たまたま検索したら変更できることに気づいた。
関連記事の事である。
記事を投稿すると、ページ下部に3つの関連記事が表示される。これがもうどうしようもなく……というほどでもないけれど気になっていた。だって、全然関連してない記事が表示されてるのですヨ。昔ノリで書いた記事が再びコンニチハしちゃうので困っていたのだ。これを表示してほしい!っていう記事ほどよく埋もれている。個別に設定は出来るらしかったのだけど、これだけ記事が増えると一つ一つを変更していくのは、非常に、非常に面倒くさいのである。
どうしたもんかなーと思っていたら、なんとJetpackが原因だった……。盲点だった。設定をちょろっと変えたらあっさり消えた。……というわけで!今後は過去の黒歴史を気にすることなく色々と書けそうだ(まあ普段から気にしてないですけどね!)
そんなお話でしたー。
ついでに、唐突ではあるがコミュニケーションについて考えてみた。
前回も書いた劇団テレワークの『BestFriends.com』の影響である。
動画はコチラ。
▶本公演#02「BestFriends.com」(21:00-22:00)【劇団テレワーク】
生きていく上で、全く誰とも会わないという事は現状不可能だ。未来はどうなのか分からんけども。家族や職場の人たち、学校の人たち、友人、地域の人たち……あらゆる所に他人は存在している。スーパーでの買い物なんかでも店員さんとやりとりが発生する。デリバリーを頼んでも受け取りで人と会う。数日間は遮断出来たとしても、一生は無理だ。他人とのやりとりが煩わしいと感じる時は確かにある。けれど、全くないとそれはそれで今度は人との出会いを求めてしまったりもする。
不愛想な表情ばかりしていたら怪しいと思われる事もある。ちなみに先日私は仕事終わりの夜、家の近くでたまたますれ違った人に「何、何なのあれ!?」と不審者扱いされてしまった。なんてこったい。円滑に生きるためには、周囲の人たちとのコミュニケーションは必要不可欠だ。
喜多川泰さんの『ソバニイルヨ』という作品でも取り上げられていたが、人は無意識に周りの人間に期待してしまっている。期待するから、期待した動きをしてくれなくてイライラする。例えば宅配ピザを頼んだとしよう。30分で来ると言われていたのに来ないとイライラする。ピザが冷めていたらイライラする。注文したら熱々のピザが30分で届くのが当たり前だと思っているからだ。これはまあ買った側と売った側ではあるのでちょっとあれだけども、これを友人に当てはめてみても、同様の事を考えてはいないだろうか。俺がこう言ったらあいつはこう返してくれるはずだ、みたいな風に。
思い通りの答えを返してくれる人は、とてつもなく安心するのかもしれない。けれど、常に思い通りの答えを返してくれる人はいないだろう。問いかけておいて自分でも思い通りの答えが何なのか分からない時もあるのではないだろうか。
相手も、自分に対して思い通りの何かを求めているのかもしれない。Aさんにとっては思い通りでも、その思い通りにするためにBさんは自分の思いとは正反対の事をやってくれているのかもしれない。こんな事を考え出したら際限なく悩み始めるのでやめておこう!
AIで友人を作る、というのはこの先の未来でありうる話だと感じた。ここらへんでは村田沙耶香さんの作品も浮かんでくるのだけれども、友人だけでなく、他人の全てはAIで済ませられるのかもしれない。「自分」という存在以外、リアルな人間は必要なく生きていける世界が出来てくるかもしれない。煩わしいこと全てを排除していっても生きていけるかもしれない。
自分の思い通りに動くものばかりになれば、必然的にコミュニケーションのありようも変わってくるだろう。他人に全く気を遣わなく済む。思い通りに行かなかったら設定を変えれば良い、削除してしまえば良い、という発想になる人も出てくるだろう。リアルな人間相手なら抵抗感があっても、人間以外ならば設定変更や削除に対しての抵抗感はかなり少ないのではないだろうか。縁を切りたくても、色んなしがらみが邪魔をするのが人間同士だと思うが、それら面倒臭い事が一切ない世界。それでも生きていける世界。
そんな世界はおかしい!と思っているかもしれないけれど、そう思っている私の常識というやつはどこから生まれているのか?今後もし世間の常識がそのようになっていけば、自然と自分自身の常識も変わっていってるのかもしれない。それを当たり前と受け入れているのかもしれない。怖いですね!個人的にはクリーンすぎる場所よりもちょっと荒れてるくらいの方が好きなので、クリーンになればなるほど、正論を振りかざす人が正当化されすぎることにも違和感を覚えたりもするけれど、さてこの思考も一体どこから(エンドレス)
今の所はまあそうはいかないけれど、最初から思い通りに行くことは一つもないと考えておけば、思い通りに行った時に「よっしゃ!」となるだろうし、人生は面白いと思えるかもしれない。思い通りにいかない事を経験していけばいく程、対処の仕方も分かってくるのかもしれない。個人レベルで出来ることなのかもしれない。
ところで、Youtubeで動画を観る時の基準の一つに再生回数があると思う。今回の公演は再生回数としては5,000回ほどだった。私も以前動画を上げた事がある。もうあんまり覚えていないけれども、確か再生回数は100回行ったくらいだった。5,000回はもちろん凄いのだが、単に視聴を楽しむ側として見た場合、100万とか1000万とか1億とかが沢山あるからどうしても少ないと感じてしまう。再生回数が多い動画は割と関連リンクでも出てきやすかったりする。再生回数が多いほど、当たり前だが視聴した人が多い。その人たちが周りの人たちに紹介したりすれば、そこから更に視聴する人は増える。バズればどんどん増えていく。目に止まるチャンスが増える。周りも良いって言ってるし、良い作品なんだろうって思ってしまう。
みんながオススメする人気作品も良いのだけれど、「たった一人が激推しする作品」もやはり知りたいなと思う。今回の推し〇ではそんな推しが沢山あってホクホクだった。自分が知らないだけで、面白い世界はそこら中にあるのだ。
やはり推し紹介は、面白い(綺麗にまとまったぁっ!)