とにかく読む、読む、読む

昨年読んだ本は13冊だった(読了ツイート調べ)なんてこったい。

一昨年は23冊である。2019年は100冊、2018年は76冊、2017年は50冊。2015年は365冊。2016年は分からん。とにかくコロナ禍になってからというもの、明らかに読書量が減っている。

ここ2年間の反省をふまえ、今年に入ってからはちょっとした隙間時間にもとりあえず本を開くようにしている。1ページでも、1ページ読めなくても1行でも2行でも読むようにしている。どこまで読んだっけ、となって読み直すので全く進まないのだがそれでも読むようにしている。既に15冊読了。もう少しで読み終わりそうな本が1冊。良いペースだ。

やはり読書は良い。

いつの間にやら「読書」に色んなものがついていたような気がする。読んだら読了ツイートをしなければいけない。推し本紹介記事を書かなければいけない。読書会で紹介しなければいけない。あ、読書会で紹介しなければ、というよりも、読書会でウケるかウケないかを基準に読む本を選んでしまっていた気がする。

一年で何冊読むとか、知識を得るためとか、本を読むことに目標や目的をつけるのは短期間では効果があるだろうけれども、持続するのは難しいのではないだろうか。かといって純粋に読書を楽しむ、というのも持続可能かどうかという点で捉えるとなかなか難しい。何らかのリターンを期待してしまうのは人間の性なような気もする。そもそもどんな読書の仕方が良くてどんな読書の仕方が悪いかなんて論じるのも、ちょっと違う気がする。

いつも否定と肯定を繰り返してるような気もするけれども、結局のところ、好きなものを好きなように好きなだけ読めば良い、というのが結論なのだろう。向き合い方はその時々によって変わるし、その時々によって読みたい本も変わる。同じ本を読んでも自分自身の抱える問題によって感じ方が違ったりもする。過ぎ去った問題に物語として触れたときは懐かしいなと思うこともあったり、古傷が痛むぜ…となったりもする。つい新しい本に手が伸びがちだが、同じ本を繰り返し読むのもアリ寄りのアリだ。

それでいいのだ、多分。

紙書籍でもいいし電子書籍でもいいし小説でもいいし漫画でもいいしビジネス書でもいいし絵本でもいい。そもそも読書が特別なわけでもないから、読書嫌いならば無理せず他のことをすればいいし、何もしたくなければ何もしなくてもいい。

きっと、余計なものがつけばつくほど、読書に限らず物事は楽しくなくなるものなのだろう。つい効率的だなんだのと色んな要素を付け加えたくなりがちだが、なるべくそうしないほうが良いのだろう。

おや、この結論に達してしまうと、冒頭に書いた13冊で嘆くことは、嘆かなくてもいいんだよとなってしまう。私は一体何が言いたかったのだ。書き始めたときは「去年はあまり読めなかったから今年は沢山読もう」と締めくくろうと思っていたのに、これじゃあ終わらせられないじゃあないか。

そうそう、そういえば先日久しぶりに図書館に行った。3、4年ぶりである。一時期は2週間に一回は通っていたのだけれども、引っ越しを機に足が遠のいていた。あ、行こうかなと思って行ってみたらチャリで10分もかからないところに図書館はあった。ページをめくる音さえも聞こえてくるぐらいの静かな空間。図書館の外も自然の音に耳をすませられるくらい静かで、何だか良いなと思った。久しぶりに行ってみると、書店ともまた雰囲気が違うものだったんだな、と気づく。結局、やはり二週間後に返却で行くのは面倒だなと思ってしまって本は借りなかったけれども、またちょいちょい足を運ぼうかなと思った。

図書館を出ようとしたとき、ふとあるものが目に止まった。

図書館の自由に関する宣言

今までならばスーッと通り過ぎていただろう。なのにその日は何故か気になって続きを読む。

第1 図書館は資料収集の自由を有する
第2 図書館は資料提供の自由を有する
第3 図書館は利用者の秘密を守る
第4 図書館はすべての検閲に反対する

すべての検閲に反対する…図書館にもはっきりとした目的があるんだよなあなんて思ったりした。これで次に読みたい本も決まった。こうした流れで読む本を決めるのも、悪くない。お、何だか良い感じになってきたのでここで終わるまる。