そんなことよりおっぱいの話をしようぜ!①

まず最初に。

このホームページは読書会のホームページだ。読書会自体が初めての方にも安心して参加して頂くために、主催者の情報だったり読書会のレポートを書いたりしている。

コンテンツとしては6つある。

・はじめに
・開催日程
・開催レポート
・BookReview
・Idea box
・comingsoon

この中で『Idea box』なるコンテンツは読書会とは一番関連性が薄い。ここでは私が個人的に感じた事だったり、日々の出来事の中で起こった事などを書いている。

何故、『Idea box』という名前にしたかというと、本来はここに読書会にまつわる「あんなことしたいな、こんなことしたいな」という妄想を書いていこうと思ったからである。しかし実際の所そんな記事を書いた記憶がない。

というわけで一旦原点に戻り、妄想を書いていこうと思う。

今後、彩ふ読書会ではこんな事が出来たら良いな~と考えている。

 

 

▼47都道府県+海外での読書会開催!
これはまだ壮大な夢ではあるが、私の中では確定事項でもある。
全国の読書好きな方々と実際にお会いしたい。
読書好きな方同士が、私という存在を利用して繋がっていけば良いなあなんてことを思い描いている。「読書が好き」「こんな事が好き」って言いにくい世の中を、皆が繋がっていくことで変えていくのである。読書が趣味って素敵やん!読書がダサい、暗い、孤独、なんて価値観は最早ナンセンスだ!価値観の変革を起こそうではないか!きっと、これが実現できたら私は教科書に載るであろう。載っちゃうであろう。しかし!教科書に載りたいからやりたいわけではなく(載りたい)やりたいから(載りたい)やるのだ!(載りたい)

東京、大阪、京都、名古屋で開催していると、たまに「全国で開催されているんですよね~すごいですね~」と言ってくださるのだが、実際は4拠点しかやっていない。私は47都道府県全てでの開催が実現できてようやく「全国でやってます」といえるのではないかと思っている。あとは海外での読書会!私は日本語しか話せない。英語は「アッポーペン!」くらいだ。だが、そのパッションはきっと地球全体どこでも伝わるのではないかと妄想している。

 

 

▼誰もが参加出来る読書会へ
サポーターの方々には以前からお伝えしている事ではあるのだが、こうしてホームページ上に載せるのは初めてだ。
読書会という形式をとってはいるものの、彩ふ読書会の目的は「家庭でもない、職場でもない、第三の居場所作り」だ。読書会という特性上、「読書が好きな方」という一定の参加条件は設けているものの、それ以外の条件は設けていない。年齢や性別で制限を設けることもしないし、障害の有無で制限を設けることもしない。これは今後どのように彩ふ読書会が展開しようとも変わらないルールだ。むしろこれが崩れた時、それすなわち彩ふ読書会終了という事でもある。

ただ、まだそれほど声を大にして言えなかったのは、会場問題が解決していないからだ。会場がまだ定まっていない地域もあるため、月によっては車椅子の方が入室しにくい会場を使う時もある。エレベーターがなくて階段でしか上がれなかったり、入口自体が狭かったり・・・・・・。大阪でのオックスフォードクラブ、京都のSAKURA CAFEは車椅子の方でも入室しやすい事を条件に選んだ場所だ。オックスフォードクラブは地下一階にあるがエレベーターで降りれるし、入口もフラットである。SAKURA CAFEも入口はフラットだ。こちらに関しては車椅子を利用されている方も気兼ねなく来て頂けたら幸いだ。7月に利用させて頂く名古屋会場もエレベーターがあるので多分大丈夫。下見にはいけていないので当日まで分からないが、まあ最悪必要とあらば私が介助させて頂くので、段差、階段があれど何ら問題はない。

ただ、東京は会場探しに苦労していて、まだ転々としているという現状がある。こうして書いたのは一人で会場探すのは限界があるなと感じたからだ。入口がフラットで車椅子の方でも入室しやすいような広い会場があれば、是非声をかけて頂けると嬉しい。レンタルスペースさん、どうぞ宜しくお願い致します。

というわけで、彩ふ読書会は誰もが参加出来る読書会を目指している。実現出来ていない所もあるのが現状ではあるが、志としては常に持っている。この記事を読んで、もし「どうしても私は彩ふ読書会に参加したいんだ!」という方がいらっしゃれば、是非一度お問い合わせ頂きたい。実現できる方法をもっと加速度的に考える機会になるから私としても非常にありがたいお問い合わせである。

47都道府県+海外での読書会を目論み、誰もが参加出来る読書会を目指している。会場問題もあるので時間はかかるかもしれないが、全ての場所での読書会は一過性のものではなく日常的にあるもの、として考えている。つまりは、毎月一回のペースを理想としている。しかし、私の体は今は一つ。まずは分身の術を会得すべく目下修行中である。

 

 

▼読書文化祭
学園祭のようなものをイメージしている。屋台があってステージがあって、一日お祭りのような、そんなイベントを企画出来たら面白そうだ。多分やる。けれど、いつになるかは不明である。

 

 

▼オンライン読書会
リアルに集まって読書トークをしているのがメインの活動ではあるが、関西・東京・名古屋以外の方々とも交流が出来るような、オンラインの活動も出来ないか、と考えている。

 

 

▼落語鑑賞
これについては既に参加者の方が企画して下さっているのだが、私はまだ行けてなかったりする。ので、日程調整して行きたいと思っている。

 

 

▼日帰りツアー
居住区を離れて皆とどこかへ。

 

 

▼合宿企画
一泊二日の読書合宿!

 

 

▼イタリア旅行
JOJO部からの妄想。第五部の聖地であるコロッセオへ行こうぜ!と妄想を膨らませている。

 

 

▼浴衣で抹茶パフェ会
年に一度は浴衣を着たい。そして抹茶パフェを食べたい。二つを同時に堪能出来るというスペシャルな企画。

 

 

ざっと思いついたものだけを書いてみた。

妄想が妄想だけで終わらないのが彩ふ読書会の恐ろしさである。

最後に書いた浴衣で抹茶パフェ会は妄想ツイートをしていただけなのだが、参加者の方から希望の声を頂き、8月に実施する予定となった。そのあと何名か参加希望者が集まって下さってて嬉しい限りである。

日帰りツアー、合宿企画については既に日程が決まっている。オンライン読書会に関してもニコ生を使ってサポーターの方が試行錯誤して下さっていて、何度か実施したら本格的に出来そうな予感がしている。他の企画についても同様にタイミングが来れば実現してしまうだろう。そう、イタリア旅行でさえも・・・・・・。私が海外旅行に行くとしたら、場所はもう決まっている。イタリアだ。

一周年イベントの後に生まれた彩読LINEコミュニティでは妄想部なるブカツがある。実はここで色んな妄想トークがなされており実現化している。平日夜に集まれる人だけで集まってお喋りをする平日会やニコ生など、実現していっているのだから凄い。

『はじめに』のページで書いているのだが、「まだまだ理想を語るだけになってしまう段階ではありますが、貴方自身のやりたい事が叶う場にもしていきたい」という文章をそろそろ変えても良いんじゃないかってくらい、色々と叶いつつある。そして皆さんのおかげで、私自身もやりたいことをたくさん実現させてもらっている。非常にありがたいことだ。

皆さんには本当に感謝している。

ありがとうございます!

 

 

だいぶ真面目な話が長くなってしまった。

ついつい熱が入ってしまうのが私の悪い癖である。

もっと書きたい所なのだが、今回はこのくらいにしておこう。今日は他にも書く記事があるからだ。

そう、昨日の東京読書会の開催レポートをそんなことよりおっぱいの話をしようぜ!!

 

 

 

おっぱいおっぱい!!

 

 

 

実を言うと、この『Idea box』の記事まで読んでいる人ってのは生粋の彩ふ読書会マニア、もとい、のーさんマニアである。

Twitterで記事アップしましたよーとお知らせをするとちょっとは見てもらえるのだが、皆が見るのはほとんど開催日程や開催レポートだったりする。Idea boxもBookReviewもほとんど見られちゃいない。だからこそ好きに書いているという面もあったりする。読書会主催としてこうあらねば、なんて考え始めると「何も言えねえ……(真面目にしなきゃ)」となってしまうからだ。いわば私にとっては公開化した捌け口のようなものである。私をただの主催者だと思ったら大間違いだぞ、ということを言いたいがために記事を書き続けている。

 

 

私は単なる主催者ではない。

 

 

私は「おっぱニストな主催者」なのである。

 

 

そこを間違えないで頂きたい。

 

 

今回はTwitterでお知らせする気はないので、この記事はほとんど誰にも読まれないだろう。次々と更新していくうちに、ひっそりと埋もれていくであろう。むしろそれを望んでいる。読んで欲しいけれどそこまでたくさんの人に読まれたいわけでもない。けれど読んでくれた方には直接ありがとうと言いたい。そんな記事。この記事まで辿り着き、さらにこの記事をここまで読まれているということは、マニア中のマニアだ。ありがとうございます!

 

 

 

さて、健全なる男性諸君とは言葉を交わさずとも分かり合える事だが、男は皆おっぱいが好きである。

「いや、俺はお尻の方が……」と言っている彼も、それは好きの度合いが違うだけであって嫌いなわけではない。おっぱいとお尻、どっちも好きというベースがあって、どっちが好きかと問われたらお尻かな?という具合だ。おっぱいが嫌いな男などいない。嫌いなんて仰る輩はどこぞの誰かに忖度している。本性を表せば皆やはりおっぱいは好きなのだ。ついでにいうと私の場合は年齢はあまり関係ない。

好きなものをつい長く見つめてしまうのは性であり業である。

私も巷でおっぱいを見つけたらすかさずロックオンしてしまう。性であり業なのであるから仕方のないことだ。と、ひとくくりに片付けてしまっても良いのだが、せっかくなので「何故男はおっぱいを見つめてしまうのか?何故性であり業なのか?」をここでは個人的に考察していきたい。

ちなみに、私は普段これほど断定的な物言いをしない。いや、おっぱい嫌いな人もいるかもしれませんよ?と言うのが皆さんご存知の私であろう。そんな私がこれほど断言し主張している理由は、同意と反論を待っているからである。「あの記事読みましたよ」という言葉を待っているのである。そこから始まるおっぱい談義。それをしたいがゆえに、今私はこの記事を読んでいる。

 

 

 

 

 

 

では、まずは「おっぱい」の定義から始めよう。

 

 

 

 

 

おっぱいとは何か?

これは是非とも哲学カフェでやって頂きたいテーマの一つである。これまで過去二回沈黙を貫いてきた私が、まるでゲリラ豪雨のように話し始めるであろう。二時間でも足りない気がする。夜通しいけそうだ。

さて、おっぱいとはまず、何を指すのか。ひとくくりにおっぱいと言っても、イメージはそれぞれ異なるであろう。誰それのおっぱい、と特定してみると良いだろうか。いや、それはそれで見る角度によって違いが出てくる。上から見るか、下から見るか、そんな映画が以前あったような気がするが、とにもかくにも同じイメージを持つには「角度30度の……」といった見る角度の指定も必要そうだ。そこまでやったとしても、それを見るAさんとBさんがどんな人物かによって変わってしまう。たとえば、私と小学一年生の男子が同じ角度で同じおっぱいを見たとしても、二人が抱くイメージは変わってくるであろう。そう考えると、結局の所私が主張していることはどこまでたっても伝わらない気がしてくるが、今日はただ単におっぱいの話をしたいだけなので特に気にしない。

何はともあれ、特定の誰かのおっぱいについて思考を深めていきたいわけではなく、私が「おっぱいとは何か?」の中で定義付けしたいのは、私が言っているおっぱいについての定義付けだ。特定の誰かのではなく、漠然とした中でのおっぱいである。そこには顔も下半身もいらない。上半身についているあれだけだ。……いや、待て待て。おっぱい単体だけでも私は見つめてしまうものだろうか?おっぱいが地面に落ちていたとしたら私は拾うのか?確かに物珍しいから拾うかもしれない。いや、さすがに気味が悪いと思ってしまうだろう。ただし、やはりおっぱいが落ちていたら目線はロックオンするだろう。他の物が落ちている時よりも長時間見つめている自信もある。

物珍しくなかったらどうだろう?私は拾うだろうか?拾って何するんだいって感じではあるが、少なくとも拾ってナニすることはないだろう。と考えると、おっぱい単体だけがそこにあったとしても、私にとってそれは好きと言っている部類のおっぱいとは言い難い。ならば、おっぱい単体に何が付属した状態を私は私の思うおっぱいと認識し、好きだと言っているのだろうか。範囲を広めて考えてみようか。いや、逆に狭めてみようか。

・・・・・・いや、もうやめよう。

既に私の語りたいおっぱいからはひどく遠ざかっている。

真面目におっぱいを語って何が面白い。

考えるだけ無駄というものだ。

おっぱい哲学にはアリーヴェデルチ!!定義なんてくそくらえだ!私が思うおっぱい、それが定義だ!「何故男はおっぱいを見つめてしまうのか?何故性であり業なのか?」知るか!好きもんは好きなんじゃあ!

 

 

 

・・・・・・ところで、目線は案外相手に気づかれているものらしい。

本人は気づかれていないと思っていても結構気づかれている。その事実を嫁から聞かされた時には全身に衝撃が走った。同時に戦慄した。私は嫁のおっぱいだけでなく、不特定多数のあらゆるおっぱいに目線を注いでいたからである。

な、なんだってー?!w( ̄Д ̄;)wワオッ!!

てことは、あの時のあれも!この時のあれも!実は気づかれていたっていうのかい?!そうなのかい?!

と、過去の所業を思い出し、不特定多数のあらゆるおっぱい所有者に対して「土下座+懺悔=どげざんげ」をしたくなった。そういえば途中から相手が急に冷たくなっていた気がする。あまりに見つめすぎてて「体目当てなのね!」なんて思われてしまったのだろうか。いや、違うんだ。私は何か考え事をしている時にぼーっと何かを無意識に見つめてしまう癖がある。そんな時おっぱいがあればそこに焦点が定まるのは自然の理だ。おっぱいは何と安心感をもたらしてくれる存在か。いわば安心して物事に耽る事が出来る、私のヒーリングポイントなのである。

しかし、その衝撃の事実を知って以来、私は心の中でどげざんげを繰り返すようになった。どげざんげを繰り返している内に、あらゆる人々に対して申し訳なくなり、意識的に地面に目を向けるようになった。目と目を合わせて会話しているはずなのにいつのまにやら目線がおっぱいに向かってしまう事が度々あったからだ。これはいかん!と慌てて目線を戻すもののその時にはもう遅い。既に相手には気づかれている。しかし、相手も気づいておきながら「今おっぱい見てたでしょ!」なんて事は言わない。言われたら言われたで最高に嬉しい(ドMですからね)のだが、現実はただただ何事もなかったかのように場は進むだけである。気まずい空気を添えて。

そんな空気をなるべく避けようと地面に目を向けるようにしていたら、私はコミュニケーションが苦手になった。目と目を合わせて会話しないと相手の表情は読み取れない。私は相手の表情を見て話す内容を変えたりしているからである。表情が分からないと会話が成り立たない。しかし、顔を上げるといつしか目線はおっぱいへと向かってしまう。目線というものは厄介なやつである。そろそろサングラスをかける時期が来たかなと真剣に悩んでいる。それか、元々目は細いほうなので、普段から更に目を細めておいて目線が分からないようにするのも手かなと真剣に戦略を練っている(錯乱中)

 

 

また少し話が逸れるが、本を読んでいると、それまで知りえなかった事に興味を持つことがある。視点が変わることもある。例えば橋本紡さんの「葉桜」を読んでいると書道に興味を持つ。書道に興味を持つと、近所の市民会館で掲示されている「書道教室の案内」に目が留まるようになる。以前から掲示されていたにもかかわらず、それまでは気づいてなかったものだ。それが、葉桜を読むと急に目に留まるようになるのだ。つまり、自分の中に新たな価値観が生まれると、それらに関連するあらゆるものに対して興味が沸いてくるという事だ。

そう考えると、おっぱいを見つめてしまうのは当然の事なのかもしれない。幼き頃、母親の母乳で育った子供はおっぱいを超のつくほど間近で目にしている。おっぱいというより単なる肌?レベルの間近さではあるが、とにかく毎日おっぱいを目にしているのである。逆にそれで興味を持つなという方が土台無理な話だ。悪いイメージを持つ方が難しい=それが好きという事ではないだろうか。そして、好きなものをつい長く見つめてしまうのは性であり業である。おやおや、アリーヴェデルチしたというのに意外な所からおっぱい哲学に戻ってきたもんである。

 

 

この記事を書いていると、ふと思う。

私は好かれたいのか嫌われたいのか気味悪がられたいのかおっぱいになりたいのか・・・・・・多分おっぱいになりたいのだと思うが、記事を書いた所でおっぱいにはなれないし、彩ふ読書会に興味を持ってこのホームページを訪れた方がたまたまこの記事を最初に読んでしまったら即座にブラウザバックだろう。何のメリットもなく、ただただ自己満足なだけの記事だ。しかしまあ自分が楽しむのが一番であると開き直って更に書くとしよう。既に過去最高の文字数を打ってるような気がするが、哲学カフェならば夜通しいけると書いたくらい、まだまだ行けるくちなのである。ちなみに、おっぱいを見つめる云々で最も恥ずかしいのは、誰かのおっぱいを見ている最中にその本人ではなく周りに気づかれてしまうことであると私は思う。それはさておき。

お次は、なぜ私がおっぱいを好きになったのか。

私の場合は小学生時代のとあるエピソードがあげられる。以前も書いた気がするが、非常にお綺麗なお姉さんがいらっしゃって、私は彼女からこう言われた。

「いっぱいを十回言って」

「いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい、いっぱい・・・」

「『い」を『お』に変えると?」

「おっぱ・・・・・・!!」

「答えは、おっぱお、でしたー!」

「・・・・・・・・・!!!」

こうして私は初めて「おっぱい」というものを意識せざるを得なくなったのである。性への目覚め。異性を意識した初めての体験。しかし、これは甘酸っぱい記憶であると同時に、私個人としてはとても好意的に捉えているエピソードである。

仮にもし私がこのエピソードを否定的に捉えていたら、私はおっぱいをどう捉えるようになっていただろうか?馬鹿にされた、なんて思っていたら、おっぱいが嫌いになっていたのだろうか。もはやおっぱいを好きになってしまった私には想像がし難いことだが、別のものに置き換えてみれば想像はしやすいかもしれない。

たとえばしいたけ。私はしいたけが嫌いだった。

何故嫌いなのかというと、口に入れた時のぐにゃっとした食感が気持ち悪かったからだ。今は別に何とも思わないが、小学生の頃は全く持って口にしなかった。しかし、これもよくよく思い出してみると第一印象が原因だった気がしている。初めてしいたけを口にする前、隣にいた友達が「しいたけってぐにゃぐにゃして気持ち悪い~」とか言って嫌そうに食べていた。それを見ていた私は、「そうか、しいたけは気持ち悪いものなのか」と認識し、私自身も嫌いだと認識したような気がしている。仮に隣にいた友達が「しいたけ大好きなんだよね~」なんて言っていたら、私自身の印象も変わっていた気がする。この頃から私はコンビニ人間だった、といえよう。

これは、読書にも同じことがいえるのではないだろうか。

最初に好きというイメージを持つと、読書が好き。嫌いというイメージを持つと、読書が嫌い。一度好きになってしまえば、嫌いにまで至るにはなかなかの振り幅がある気もする。それこそ好きになったイメージが覆るほどのエピソードがなければ嫌いにはならないんじゃなかろうか。そう考えると、最初に抱くイメージはとても重要な気がする。

実は近々子供がうまれる。子供がうまれる事を書いたのはこれが初めてだ。そして多分ここ以外に書くつもりもない。何故、ここで唐突に書いたかというと、子供の事を知っているということは同時にこの記事を読んだ事を意味するからだ。「お子さんうまれるんですってね」というさりげない声かけから始まるおっぱい談義。それを期待しているのである。子をダシに使うという何ともサイテーなパパである。ちなみに子供にはおやすみ前の絵本代わりにジョジョ全巻を読み聞かせする「ジョジョ英才教育」を既に考えている。人間賛歌の物語。とても良いじゃないか。「英才教育する」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!

今私が最も恐れているのは、おっぱいに対する認識が変わりつつある事だ。自分自身の環境の変化と共に、おっぱいの好きの度合いが小さくなってきている気もしている。無論、これだけの文章を書けるくらい好きなのではあるが、この熱量で一年後同じように書けるかというと、自信がない。今だからまだ書ける記事だともいえるだろう。そして読み返してこっ恥ずかしくなるやつだ。

まあ、それでもついつい癖で目線は行ってしまうのだけれど、ただ単に癖なだけで、害はないのでお許しください。という事を書いておいて免罪符を得ようとしているのであった。今は人の内面に興味がシフトしているのは確かなようで、自分でも恐ろしいくらいに仙人レベルだ。いかん、やはり色気は常に必要だとも思うのだ。もう7月だし、ダイエットもしなければ!!

 

さて、ここまでに書いたおっぱいの回数は・・・・・・何と70回!!らしい。今検索したら70回と出た。

100回目指しても良いが、もう満足したのでここらでやめる事にしよう。また一年後にチャレンジしてみたらどうなるか、やってみても良いかもしれない。次は増えるのか、減っているのか。好きの度合いの参考にしてみよう。

実をいうと、この記事は今日勢いのまま書いたわけではない。これを書くのに一ヶ月もかかってしまった。隙間時間を見つけてはおっぱいについて調べていたのだ。決してエロサイトを堪能していたわけではない。真面目におっぱいについて調べていたのである。読んでるほうも書いてるほうも楽しくないなという事で全削除、アリーヴェデルチしてしまったが、結構真面目に取り組んだ記事なのである。

まあそれはそれで良いのだが、Google先生もAmazon先生もとっても賢くて、今私が何を求めているのか手に取るように分かるらしい。

今ショッピングサイトには関連リンクで赤いブラが沢山表示されている。

今すぐ買うか、あとから買うか、さてどうしようかと私は今非常に迷っているところである。

完。